二種の人間(政治的分類で)

  • 2007/09/18(火) 17:43:06

この世には二種類の人間が居る。

「この世をこのように良く変えたい」と明確な国家ビジョンを持っている
のであるが、別に英雄・革命家になりたいわけではない者…と、

特に明確な国家ビジョンを持っているわけではないが、ともかく
「英雄になりたい」と考えている者…と。


この場合、「自分の都合よく好き勝手に振る舞えるように、
特権的地位を得たい」と考えているヤツは、「人間」には
含めていない。





後者はどうせ自らが英雄となるならば、どうせなら良い国の仕組みを
もたらしたいとは思っているだろう。であるならば、両者の思惑は
合致して、互いに野望を競合しない関係になる。理想論としては。

前者の言う「良い国」とは、別に自分にとって都合の良いという
意味では無いので、同じ結果になるのであれば、それをもたらすのは
何も自分でなくとも良いわけだ。自分がもたらしたからと言って、
なにか特別な特権を求めたりするつもりもあるまい。

そのような中から、特に対価を求めるでもなく、「作品」を世に出す
動機が生まれよう。例えば革命の時代の大作家などは、今の著作権時代の
ケチな作家のように、印税を求めたりしてやしない。名誉の指標である
かのごとく、その特許の永続を求めたりしなかったろう。むしろ、
自己資産を投入してでも、世のひとりでも多くに読まれるならば…と
願ったろう。        …注1



「何か でかいことをしたい」「大事にこそ この身を投じたい」
そう考える者は、それが自分の発案である等とは問いやしない。
誰の考えであれ、良いものは良い のだからと広めるだろう。

前者と後者の接合点はそのような場所にあろう。
使えるものは使う。




そのような者の居ることを期待して、アイディアを流す。
一昔前なら酒場で話す。今ならインターネットの有名掲示板か。
それが後に大ヒットとなっても、「それの発案者は俺だ」と
名誉や対価を求めたりするわけではない。そんなものを求める
必要はない。

そのような思想の流行によって変わった新しい世界が、
すでに発言の対価として享受する対象となっているからだ。

小さな事で言えば、
着たい服をデザインに起こす。誰かがそれをパクり、製品化する。
衣装でなく、機能鞄やアイディアグッズでも良い。その流行によって
その者が大金持ちになろうと、妬みやしない。
その製品を買って使い生活に取り入れている私が居るのだから。
もし、その「妬み」を怖れ、世に出していなければ、同じ頃、
それを着、使っている自分は居ないのだから。それが大ヒットに
ならなくとも、同じ事だ。


「発明の対価」だとか、「損をする」だと思って、機動力の無い者の
誰もがアイディアを飲み込んでいては、それらアイディアは、
革命的に世を変えるものであっても…それほどでなくとも流行品として
一時代を彩るものくらいならば例えとして受容できる?…であっても、
いっこうに世に出てこないことになる。
「ほんとに良いと思うなら、自分でやれ!」なんて威圧的言葉で、
ただアイディアを願望として垂れ流しているような連中の活動を、
圧殺しようとする者も多い。「働け暇人!」「どうせ金にならん」
等々と。
発明の具現者をを、発案者だけに委せていては、もったいない。
もったいないし、それって人任せだし、ある意味それも無責任だ。





「人間みな同じ」という平等意識もいいが、「精神の根本的な領域では
全く異なる動機で生きている人間が複数居る」という現実も、見逃すべき
ではない。ではないし、それが平等の理念を揺るがすものでもないだろう。

変に平等平等といって、人間の内発的な動機をも 同じ前提に置いて
人の行動を測っていては、互いが駄目になる。

せっかく活動力のある人間に、それを誰かの受け売りだとかパクリだ
とか言って、その行動力をあえて無理矢理にも挫く必要があるのか?

人任せだからだ とか、自分でやればいい という押しつけで、練れば
化けるかもしれないアイディアを、眠らせたままでいいのか?!



もちろんこのように極端な二例の内に、誰もがどちらかへと完全に
分割される訳ではない。言うまでもない。このような二面性は
誰もが同時に持つであろう。が、それらの配分は、誰もが同じである!
…ということは無かろう…と言っているのだ。









注1>
もちろん今の著作権時代だからこそ、より多くの人間に読まれるために、
大資本に寄生せねばならぬ事情もある。
市場の仕組みに乗っからなければ、どんな名作も流通しやしない。
作家が無償提供しても旨味が無い。業界は食いつきやしない。生まれる
資本を目的に、野心的作家と こそ、提携することになるのだろうから。

政治家用語「れば」

  • 2007/09/17(月) 21:44:05

政治家の言う「れば」「ならば」とは、
そんな事実は私は「事実として認めていない」と言っているに等しい。

例えば安倍元総理。
彼は総理就任時から「格差があるならば、光を当てねばならない」と
言い続け、何も手当を困じず、結果、選挙に大敗する事となった。

福田新総裁候補は、
「(改革に)問題が生じれば、丁寧に修正する」と言っている。
これは はっきりこれからも続ける改革に「問題が生じる事はない」と
言っているに等しい。ついでに後半の文言の「丁寧」とは「ゆっくり」
だとか「後回し」と類似の言葉であろう。
「迅速に手当するつもりは無い」と宣言したに等しい。



これで、騙され、福田支持を表明する多数の国民は、なんて
イメージ先行でキャッチフレーズに弱いのだ…と情けなくなる。

先の選挙で「NO」を突きつけたはずの「金持ち優遇改革」を
そのまま続けると言っているに等しい人物を支持してしまうのだから。

幕末における文化的断絶

  • 2007/09/17(月) 12:14:23

日本はなぜ「和魂洋才」のようなツギハギへ流れていったのか…


江戸幕府は早くから外交は行いたのだが、海外からの外交官と接し、
天下国家を論じ合う中で、その国力や国家管理制度の合理性を前に、
思うに「対等に創部できない」「勝てない」と悟ったのでは。
いや、思い知ったのだろう。昨今の日本の政治家のように。

だから、彼ら政治家であり官僚でもある武士達は、その自らの
起源である武士…剣士であり兵士である本分をもって、彼ら
軟弱な海外の交渉者らに対する優位性を示そうとしたのでは
なかろうか。自慰的に。逃避的に。陰ドーダ的に。


その為政者の中での武士足ろうとする態度が、言論が、
子や大衆に伝播して、幕末・明治維新の剣道道場が繁盛して
いたのではなかろうか。陰ドーダの陽転。
そして、それにこそアイデンティティを見いだし、その場での
優秀さを実戦・立ち会いで勝ち取り、揺るぎ無い自信を持ち得た
その道の実力者…多くが下級武士達…を実政治の道へと走らせた
のであろう。

そのようにして、日本の政治は、本来の政治・行政をになうべき
頭脳を失ってしまったのではなかろうか。陽ドーダの作る空気に
逆らえず、理が情に負け、問答無用となり、半ばクーデターのように、
陽ドーダの申し子たる剣士らによって、政治中枢を乗っ取られて
しまう事によって。


しかし、国として諸外国と渡り合い、国内を統治するには
何らかの仕組みが無ければ回らない。そこで安易に諸外国の
制度を継ぎ接ぎして生まれたのが明治新政府ってことなのでは。

政治的実力を伴わない彼らは、先達のように異敵の政治制度に
コンプレックスを感じることもなかったが故に、陰ドーダを発動
することもなく、素直にそれらを受け容れていった。

ここに政治的制度的連続性が断たれる。

故に、江戸の知識が多く失われる事になった。



…ってのはどうだろう。