日本人にとっての「桜」

  • 2007/09/14(金) 17:17:44

桜は
春の一瞬、日本人の目を楽しませる」その為だけに
苦労して育てているのだ。

…そう保守的、玉砕主義的輩は強調する。
玉砕主義的美徳をも抱き合わせて。



私はこれを、違うんじゃないか…と考える。

夏、桜の木の周りは格別に涼しい。
恐らく光合成が激しく、気化冷却の効果が高い
結果なのだろう。

それは言い換えると、
夏、毛虫に集られても簡単には裸にならないほど
葉を青々と繁らせる。秋にその大量の葉を落とすこと
によって、大地や畑を肥えさせていたのだろう。
それはコンクリート、アスファルト社会では想像もつかない
だろうが大層なメリットであろう。現代では単に掃除を要する
だけの「無駄」でしかないものだろうが。

そのように農耕のサイクルにそれぞれ呼応した一石二鳥・三鳥の
「暦」のような存在としての「桜」が見えてくる。だからそこ、
不可欠な風景として、全国的に珍重されているのだろう。
そう考えるべきではなかろうか。


でなければ、あまりに情緒的すぎるし、
昔の日本人を“迷妄扱い”しすぎだ。


春の半月、宴会するためだけみに…、その宴会に
「花は散るから美しい」てな「お題目」を語るため
だけの桜って…、食うに困っていた時代も切られずに
残ってきた理由としては、あまりに不合理すぎる。





ちなみに、
私は春の昼間っからの宴会を、そのものとして
合理的なものであると認めている。

発熱から発汗へと人の身体を冬仕様から夏使用へと
造り替えるスイッチとしての太陽光をこの時期に浴びる
ことは、その移行をスムーズにさせるからだ。
春眠暁を覚ず…春に始終眠いのは、単に、その夜が快適で、
陽日が心地よいから だけではない。

例えば五月病のようなうつ病的なものがその時期に流行するのも、
このような伝統を軽視して、コンクリートの下で、体もろくに
動かさないデスクワーク・ベルトコンベアワークに打ち込んで
いるからだろう。
思えば五月病のような言葉が生まれたのも、そのような生産体制が
この国の主流になった頃と対応していやしないか?!
当時は家を離れた若者の“幼く弱いホームシック”だとして説明付け、
解決した気になってきたが、そうではない! …のではなかろうか。

だから、年中陽の下での仕事・作業をしてきている農家であるならば、
そうはならない。この観点からは、花見の必要性も言えない。




…そもそも、
「花見文化」とでもいうようなものは、町人文化・商人文化
としての江戸文化として生まれたのではなかろうか。
であるならば、私の言う合理性も、文化の萌芽に欠かせない
ファクターとして、その起源から働いていたことになる。

花見を怠る者より花見で発散する者の方が相対的に健康な生活を
維持できてきたのならば、ダーウィニズム的説明にも耐える。