身代わりになるモノ

  • 2008/02/07(木) 12:02:32


普段無自覚に行っている身辺の様々な事に向けられた
心配り。

それは、異常事態において心配事に心が向けられるが故に、
それら心配りの恩寵をうけていた対象はその援助が断たれる。

結果、友人や仕事での約束をすっぽかしたり、
花を枯らしたり、お気に入りのコップを割ってしまったりする。


論理的に扱えば、それら生じた様々な出来事は、
関係の無い“別物”だと言い切れるだろう。全く関係ないだろうと。
しかし、人間として、限りある肉体のある存在として、
絶対に別物などとは言えない関係にある。

故に、その時、その緊急事態において失われたものはやことは
総て、そのために助かった者の“身代わり”でもあり、
それら身代わりとなった存在が、“救ってくれた”のだ
とも言いえる。

その表現になにか間違いがあるだろうか?!



そして、急事において、自らの力を、その救いたい対象、相手に対して、
どれほど、どれだけ、向けることができるのか…は、その指標は、
急事でなく平時において決まってくる。

平時において、その者が、どれほどの多くの対象に心を配っているか
愛を育んでいるか。その量に比例する。

故に、それは身代わりになった対象のおかげであると同時に、
やはり救った当人の力である。のだとも言い得るのである。

このような表現もまた、間違いではない。

そして、ここで記述したような関係が、実際の人物個人の中で
平時意識されていない…ほとんど無意識の中で行われている
配慮や心配りであるので、切った方も切られた方も、ほとんど
意識していない。指摘されても気づかないものである。

それら相関関係を、現実的な因果関係に置き換えて説明することが
あまりにも困難であるが故に、このような関係の存在は、ほとんど
オカルト的な表現に頼るしかない。しかし、表現がオカルト的になる
ことによって、それが現実ではないことだと言えるはずもない。

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国民と政治、結果と意図

  • 2008/02/04(月) 16:56:35

なぜ、あの時点で、あのような政治(小泉時代)を
国民が非難できなかったのか…ずっと疑問に思ってきた。


単純に、無関心やマスメディアのコントロールのせいだと
考えてきた。現にそのような作意は随所に多々見られていた。



しかし、そうではなかったのだと今にして思う。

バブル崩壊以降の自殺者の多さ。身近な者を自殺によって
失っている者のさらに多さ。というものの存在を、
単純に数でしか考えてこなかった。それら被害者の
被害者意識のようなものとしてしか。

しかし、それは一面的すぎた。

その実体について考えることなんて、無かったにも等しい。


それら者たちは、身近な者を失い、救えなかったつらさと
“意図せずに”苦しめていたかもしれない自責の念に
嘖まれている。

そんな“自分”を棚上げにして、よかれと信じて行った結果
としての政治(仮に)を、どんな現実を招きよせたのだとても
非難できる心理にはなれなかったのではないか…と。

そのような可能性を、可能性であれ責めるという行為に対し
自らの心がつらすぎてつらすぎて耐えられなかったのではないか
…と。



今では、そのように思えるようになってきた。

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一期一会を目指さない

  • 2008/02/03(日) 16:54:21


一期一会の精神がいつも良いとはかぎらない。

一期一会の精神で居るということは、
その瞬間、気付いたことを言わなければ、
後にそれを言うことは決してない
と思い知ることでもある。

だから、後悔を残さないためには、すべてを
「その場」で言うという…ということになる。

でなければ、墓場まで持って行くか。
常にそんな二者択一。


しかし、「今」言えば、相手にとってきつすぎる。
って言葉もある。しかし、いつかは必ず伝えたいという内容で。


一期一会の精神は、そんな時において、
「いつか笑って話せるときが来る」
と信じて「今」は飲み込む。

…ってことが出来ない心癖を育てることになるのだから、
そこには未来を「信じる」という精神が無い。



それを良いことだ…なんて今はとても思えない。