現時点での「自由」とは何か。半世紀前ではなく

  • 2007/12/29(土) 19:16:45

「自由」は定義できるか(木星叢書) (木星叢書)
仲正昌樹
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この筆者はよほど嫌いなのだろう、サヨク蔑視の言葉が、
口汚く随所に鏤められている。目障りであるとともに、
持論を自ら束縛している側面もあって、勿体ないようにも
思う。



2章の終わりの方で

「自分が目に見える形で被害者にならない限り仕方がないことだ、と
私なら思う。」と書いている。私もそうだと思っている。

しかし、その大衆が気づくまでに、目に見える被害が多数を占めるまで
被害が出ることを理解しながら、あえてその鈍感につけ込む政治を
どうかと思うし、現に起こりうる被害予測を、知的に察知した者が
きちんと伝える正義も守られなければならない。

サヨク嫌いが、その左翼的言論を嫌う気持ちもよく判る。
1970〜1990年代のそれは、私もはっきり言って、
“卒業できない原始的な思考”だと思う。

しかし、今世紀に入ってこの国で行われた滅茶苦茶な制度崩壊は、
次元が違うと私は考えている。そんなレベルではないと。


筆者が2章を通じて繰り返された「自由」を巡る闘争を、
自由を獲得する場面を切り抜いて語っているが、それぞれの
段階で、「獲得した自由が再び脅かされている」という意識を
持ち得た結果であることを見逃すべきではない。
そんな意識が醸成されるその段階とは、単にそのように得た
「自由」を「あって当たり前」となった場合と、
「現に生存権が脅かされた場合」の両面もあったであろう。

世界的に見ても、いわゆる先進国でもテロ事件を許すような
情勢の不安定化は、すでに新しい「自由」を獲得する運動が
始まりつつある段階に来ている兆候であると考えることは
できないのだろうか?

多くのサヨクが幼稚な思考を卒業できていないという発見に
執着し、反権力的な運動全般を、どうせ幼稚な妄言だ!と、
無思考に脊髄反射的に切って捨てる事を正義としてきた
これらサヨク蔑視の人間にも、相当に「人間の知能の限界」を
感じざるを得ない(著者はそれをウヨクと呼称し、決して無自覚
ではない…が、あまりにバランスが悪く、埋没している)。



「自分が目に見える形で被害者にならない限り仕方がないことだ」

であるならば、過半数を占める者は、少数派を被害者にしても
構わない。ということになる。為政者は被害者を過半数に
しないように、巧妙に搾取対象を広げてゆくことこそが、
政治課題になってくるだろう。いや、現にそのような政治が
今世紀以降ずっと行われている。

自殺者は一時期交通戦争とも呼ばれた交通事故死の5倍という
異常な規模で、年間3万人という市民が追いつめられている。
子どものその過半数が、自分など生きる価値の無い人間だと
人生を諦めているという。

サヨク的陰謀論を中世権力のような支配体制としてしか理解
できないサヨク蔑視の知能の限界なのだろうか…。

民主主義的な打算的共謀関係の作り上げる「権力」が、その
決して組織されなくとも良いアルカイダにも似た利害共同者による
個別の同調行動
の作る抗い難い支配権力が、現に多くの同志を、
無辜の大衆を傷つけているのを、現に存在する被害を、リアルに
指摘していることばをも、このようなサヨク蔑視の論客が、
さも知識人面で、封殺してきたのだ。この著者が…とは言わないが、
このような論法によって。それが大衆にウケるのは判る。が、
それは、右翼的言論を無批判に封殺してきた1970〜1990年代の
サヨク論者のやっていることと、どこが違うというのか。




例えば、交通法の改正…危険運転致死傷罪のごとき厳罰化は、
“正直者は馬鹿を見る”“逃げ得”を拡大することになった。
その成立の過程が、仮に陰謀論であろうが、単なる官僚の蒙昧さ
に基づくのか、その組織問題はどちらであろうが構わない。
しかし、そのような方向性で現実を変える組織体は、やはり、
解体・改革されねばならないし、非難されてしかるべき
ではないのか?!

ますます「バレなきゃいい」という考えが蔓延し、その
司法行政構造では、「ここまでは絶対にバレない」という
ノウハウが特定階層の中だけで流通し利用される社会構造が
強化固定化されてゆくことになるだろう。市場原理の法則
によって。序列化は揺るがし難く固定化されてゆく。

絶対弱者ほど活用は易いはず

  • 2007/12/28(金) 12:23:24

絶対弱者―孤立する若者たち
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絶対弱者

それを、
コミュニケーション弱者としてそれへの向上心の欠落を説くに
留まっており、それが自らのプライドに関わるのでであろうが、
あらゆる向上心の欠落の側の有無を、重要視していない。
…そのように扱うことによるこの問題の好ましからざる拡散を
私はまず懸念する。
現時点の問題者を囲い込む上の便宜であることも判らなくも無い
のではあるが。

コミュニケーションスキルに関する向上心の欠落は共にあるとして、
他の自らの興味関心に関する向上心の有無は、きちんと別に扱う
べきではないのか。

自らの向上心と、社会的に役にも立たないものであれ没頭し、
他人の目からは無駄な苦行に思える行為を続けることのできる
能力があるのであれば、

それは、その者の適正を見抜ける上位者の手によって、きちんと
社会的にその能力が必要である場所に導いてやることが出来るならば、
単にコミュニケーションスキルの高いだけの常人などよりも、ずっと
高い仕事能力を発揮し、社会の国の生産力を高めることに貢献できる
人材(財)となるはずである。

コミュニケーション強者の独壇場であるコミュニケーション・ゲーム
のごときものは、単なる馴れ合い、無駄な時間浪費でしかない。
国家的生産能力の観点からみれば。
もちろんそれこそが個人の人生において掛け替えの無い生きる動機・目的
である者の多いことを理解していないわけではない。
しかし、そのコミュニケーション・ゲームに興味が無い者ほど、
コミュニケーション強者よりも弱者であるほうが、よっぽど仕事をする。
使命感を得ることの可能となった業務においては。

社会的に、単純労働の価値が認められ、それが承認されているならば、
無用な劣等感を感じて、そのような職業を忌避したり、自分の才能に
合致しない苦痛でしかない職業を無理に選択することも無くなろう。



昨今の日本の生産力の低下、経済低迷の一因として、私には、

多数がその“コミュニケーション・ゲーム”に没頭していること、
また社会からの強い要求と同調圧力に屈して翻弄されながらも
それにしがみついているような状態にある者らで締められている
ような状態にあることも、

その一因として、相当のウエイトを締めているハズだ…と考えられる。




バブル経済以後、日本国民全員がさも“営業マン”であるべきである
かのような風潮になった。それは戦前誰もが“兵隊さん”に憧れた
あの状態に似ていやしないか。
いや、「憧れた」という表現では相応しくないであろうか…
日本人としてあるべき姿として、そうでない者が“異常な不適格者”
であるかのように扱われていた。

それと同じように今、“営業マン”のコミュニケーション・スキル
礼賛の中で…これは“芸能人”のソレでも良い…そのレベルを満たし
得ぬ者は、“社会不適格者”として「絶対弱者」として扱われる。
コミュニケーション・ゲームの脱落者として、ひいては
社会構成員の外へと押し出されてしまう。


小泉改革の時代。何故そんな事に気づく者が居なかったのか。
全く理解できない。何故これほど自明なことを疎かにできたのか
怒りに似たものを覚える。

ここでこのように為政者のマインドを想定できる…
肉体労働・単純労働など、劣等な仕事は優秀な日本人には相応しくない。
優秀な日本人は支配者として…「営業マン」として…、アジアを支配する
…仕事の差配をする役割を担えばいい。後進国は俺に従え!
…そうとでも考えていたのではなかろうか。

それは戦中の軍国主義にそっくりだと思いませんでしょうか?




どんな社会でも、独創性とは無縁の単純労働者無しには機能しない。
いや、それこそが欠かせない構成員だ。農業も含め。

それを尊敬できない社会は、潰れてゆくのは自明ではないのか?

警官、消防隊員、自衛官…末端で身を粉にして過重労労働に
献身している者を、安く買いたたいている。その辛さを微塵も
体験せぬ青二才の「エリート」が頭の上を通過してゆく。
のうのうと偉そうに命令を無茶を理不尽を下してくる。
犯罪への荷担までもを強制してくる。少なくとも外から見て、
そんな構造になっている。
そんな今の国のあり方では、低迷して当然だ。

日雇い労働や長距離ドライバー、炭坑マンを、力強い父として
尊敬していた頃は…悪く言えばおだてすかして集めていた時代が
すさまじい経済発展していたのは、つまりそういうことであろう。

少なくとも、それに見合う対価を、高給を支払っていた。

今のワンコールワーカーは、保険も保証も保護も無い上に、
安い労働賃金で危険な仕事を任されている。知識もない上に。




明確な意志があり、行動の伴っている者を、
既存の「労働配分システム」に無理矢理組み込むことは、
社会の可能性を潰し発展性を犠牲にした悪しきシステム、
悪しき慣行主義であろう。

しかし、自らさしてそもそも明確な目的意識も無く、
クソマジメ…自分の好きなことには没頭するけれど、
単にコミュニケーションスキルの無いだけ…のような者を、
社会のシステム全体のバランスを考えて配分・分配してゆく
システムそのものを破壊し、根絶してしまったら、

そのような者が大量にあぶれ出すと共に、
無用に苦しみを抱え、生きづらさに困憊しながら、
個々人の生産能力は、十分に発揮できないことになってしまう。

そんな状況で、社会に活気が出てくるはずがないではないか。
コミュニケーション・ゲームに関連した流行市場を除いては。

充電池でデポジットを!

  • 2007/12/26(水) 12:24:20

電池は重い

それが環境に有効であると知っていても、予備として持ち歩くのは
スタイリッシュではない。切れた電池を持っているのも無駄に
思える者も居よう。だからすぐ捨てられる使い捨てをその場で買う。

今ではコンビニはどこにでもあるのだから。


しかし、ここで思う。
そのような行動様式に有れば、システムさえ確立すれば、それを
充電地に置き換えることができるのではないか…と。

コンビニなどに充電地を置く。エネループなど、今では蓄電性能の
高いものもあるので、保管による漏電を心配することもない。

あれをデポジット制にして、コンビニで販売する。

返還されれば返金する。コンビニのようなチェーン店であれば、
購入店でなくともどこでも返還できるではないか。

充電済みと交換するならば、ごく僅かの料金支払いだけで
それを入手できる。これが大規模に制度化できれば、
ほとんど電気代に近い値段だけで提供できるようにもなる
のではなかろうか…と、単純な私は連想してしまう。


そして、何より、充電を店舗側に任せることによって、
個人ではその判断に苦しんでいた“充電地の捨て時”
責任を持って任せることができるようになるではないか。

ぞんざいに扱ったが故の危険商品や不良品などによる
液漏れやその他の危険から消費者を守ることも可能となる。

消耗品のリサイクルも相当に効率的になる。個々の家庭の
タンスに眠ることも、そこいらに危険に違法に捨てられることも
相当になくすことが出来るのではないか。



現時点で、このような商売を画策している個人や団体は
はたして居るでしょうか?

コンビニで売られている携帯電話用の「使い捨て急速充電器」等々を
見る度に思う。その回収はどうなっているのだろうか…と。
その一部は、粗大ゴミとして紛れてしまうのであろうか…と。