悪態祭…というのがあるらしい

  • 2006/11/28(火) 12:28:02

それは、祭りの際、悪口を言い合い
勝った方にその後一年の福運を得る
…と設定している。


悪口とは言え、
それを言い放つには、対象の相手を深く知っていなければ、
放てない。外見的特徴を論う悪口はその場しのぎに言える
であろうが、所詮底が浅いものだ。すぐに種は尽きてろくな
時間も保たないだろう。何より、そんなものでは相手の心を
深く抉ることは出来ない。つまり負ける。

勝って福運があるかどうかは別にして、ともかく、村民が
その祭りで勝つことを望んでいるのであれば、その村では、
村民同士でお互いに観察し合う態度が自然と芽生える。

そこでは、隣の住民の家族構成すら知らない…というような
現代的都心的無責任な住民意識とは無縁となっているはずだ。





では「誉め合う」ではダメなのだろうか?
おそらくダメだろう。

誉め合うのでは、定型的な徳目やお題目…共通に正しいと
考えられている共同幻想を重ね合う事に終わるだろうからだ。

相手の実体が伴っていようがいまいが、誉める事は可能であり
容易であるからだ。オベッカ・ごますり、太鼓持ちによって
バカ殿と祭り上げる事で政が可能な事と同じで。

公共の場で誉めるという行為は、その者の良い個性を伸ばす
という方向に向かうのではなく、実体的な権力者の趣向に
全体が引き寄せられてしまう蓋然性が高い。

そこでは相手の「実体を観察する」という必要が無い。
言い換えると「個性を知る」という方向には向かわない。


祭という特別なハレの場で、「無礼講」という形で指摘された
それら罵詈雑言は、相手を否定するものではなく、その存在を
ありのままに認め、許容する舞台ともなるであろう。

それぞれがそれぞれに持つ欠点は、その社会の潜在的に持つ弱点を
それぞれに認知し共有する場にもなるわけであり、有事の際に
守るべき場所、警戒する人物等々を、おのおのの頭の中で
危険マップとして構築されることにも繋がろう。




それはともかく、
「運気」を得るというオカルト的な説明を認めなくとも、
勝者には必然的に優越的な将来が期待されるだろう。

「弁が立つ」という技能の優秀さ…だけでなく、どれだけ
多くの情報を頭に納めているか…も計れるのだから、
自治体成員を統合的に見る視点を身につける素養を
持っているのだとも言えるのだから、村長・町長として
将来を待望されること繋がってゆくかも知れない。

まだまだ知っているけど、あえて言わない…という態度を
示すようになれば、黒い権力を握る事になるかもしれない。

神事として神の前で全てを吐き出すことは、それを防止する
側面をも担おう。

命の軽視はTVゲームに始まるのか?!

  • 2006/11/26(日) 00:18:23

TVゲームのリセットボタン

子供の「命の軽視」の根元的理由に祭り上げられている。
果たしてそうだろうか?!

そのような論説を尤もらしく唱えておられる大人たちの
原体験には“ヒーローごっこ”があったではないか?!

あれなども、敵役は何度でも殺され、何度でも生き返った
近くは仮面ライダーやウルトラマン。古くは鞍馬天狗だか
黄金バット…いや、忍者活劇だってそうだ。いや、能や狂言に
までに系譜は辿れるであろうし、有史以前にまで切れやしない
だろう。

その“命の都合”などは、ヒーロー役の子(ガキ大将?)の
“さじ加減”であって、彼が満足するまで何度でも何度でも
“殺され”、“生き返らさせられた”であろう。




いや、今では誰もが精神教育に必要だと叫びがちな「道」。
その一つである剣道の、例えば「三本勝負」だって同じだ。
そこでは、“唯一の命の大切さ”を歪めている。

真剣ならば一本を取られたら、確実に死んでいる。
「三本勝負どころか、二本目すら無い」のが現実だ。

え? 「剣道は痛みを伴いゲームは無い」?!
それだって程度問題だ。TVゲームだって思い通りにならない
ゲーム世界の“現実(ルール、法則etc)”の前に辛酸を舐め、
屈辱で心が痛む。入れ込めばマメも出来るし、肉体的にも
痛い。
そして当然のその剣道だって「なるべく痛みを無くす」為に、
防具は開発・進化を辿ってきたのであろうし、その竹刀の
撓りだって、ダメージをより少なくするために発明された
のではないか。竹刀なんかより木刀で直接打ち合う方が
より痛みを伴うし、命に関わる。真剣さが違う。
どうだろう?! どちらも目指す先など変わりはしない。





ここまで言えばお解りだろう。

ゲームが「簡単にリセットできるから」だからこそ、
「命の大切さが見失われる」という論理そのものに、
過ちがあるであろうことに…。




剣道の「三本勝負」も、TVゲームのそれも、2度目、3度目と
何度でも再チャレンジがあることを当然としている。
そして、そのチャレンジの繰り返しによって、身体技能だとか
知恵だとか、文化だとかを伝えている。漢字の書取練習や
公文の計算練習となんらかわりない。それこそが修練・鍛錬だ。

その“伝えている内容”の中身こそが問われるべきだ。

道徳的に良い悪いのみならず、現実的利益をもたらしうるか
どうかなどを。


それは、歴史には無いと言われる「もし」を考えることであり、
その可能性世界を拡大させる疑似体験の総体としての「繰り返し」
なのだ。

バーチャルリアリティによって、パラレルワールドを想像し得る
ようになる。言い換えれば、異なる立場を想像することに慣れる
事によって、他人の立場、他人の痛みを理解するようになれる
…という発展を期待できる。ではないか?!

語られるイジメ加害者の体験談

  • 2006/11/25(土) 12:16:29

社会的成功者が、いくら「後悔している」と、罪の意識を
いくら吐露しても、何の解決にもなるまい。

「ああ、イジメをやっていても、あんな風に成功できるんだ」

子どもが受け取るメッセージはそのようなものになるだろう。



それが直接ではなく、間接的荷担でしかないものであっても、
イジメ加担者として、贖罪のために何をしたのかを語らねば、
子どもに対してイジメ抑制には繋がらないだろう。

どれほど後悔し、苦しんだかを。
そのもやもやを払拭するためにどのような負担を今も負っているか、
それがリスクになっていて、イジメをせずに済んだ者をどれほど
羨ましく思っているかなど、真に迫って語られていれば、それを
受け取った子どもの側も、今の行いに躊躇を感じるだろう。

例えば「犯罪者が、逃げおおせても、時効を迎えるまで脅え、
心疾患になりながら日々を暮らしている」というような
“フィクション”は、オイルショック後の相当期間にて
多くの国民に対して犯罪抑制となっていたのではなかろか…
‥と、私は感じている。

そのようなフィクションを提示できないのであれば、不用意に
イジメ荷担体験を語るべきではないように思う。


そして、おそらく。成功者はイジメ体験を悔いてやしない。

むしろ、そこでの体験や(多少はあったであろう)後ろめたさが、
…例えば作家にあっては人間の心理描写を深める糧になった。
でろうし、…多くのホワイトカラーにとっては、縁故による
出世の処世術を深めたであろう。その先に談合のような
共犯関係によって強まった結束力が構築されている。

イジメられる側ではなく、イジメる側に回ること。
…少なくともそう思われるポジションを示し得ることが、
この国での成功の秘訣となっている。