マニアのオタク

  • 2009/01/08(木) 17:43:36

アニメオタクはアニメに何も貢献していない。むしろ害悪だ。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。


害悪なのは「オタク」ではない。

オタクをそそのかして搾り取った資金を、
もしくはそれを期待し集められた元手を、
クリエーターの創造性に託さずに、

コトナカレ主義で、アンケート主義的な
プロデューサーだとかお偉いさん方が、
企画を保守的にねじ曲げるからだろう。

害悪が表れてしまうのは。



ここでオタクをバッシングし排除してしまうと、
商売が成り立たなくなる。企画自体が成立しなくなる。

つまり、真に問題となっているのは、
よい意味でファンを裏切るような「打算」だ。


ここでの筆者が期待しているような創造性は、
グズをカットすることによって生まれることはない。

グズを積み上げた上に、奇跡的に生まれるものだ。

官僚主義的に選抜してゆけば優秀な者が残る…
なんてのが幻想なのは、もはや自明のことでしょう。


もちろん、逆恨みが昂じて脅迫状を出したり、
テロ的な実力行使に出るならば問題だが、
それを抜きに語れば、
「二匹目の泥鰌」にしか
金を出さない日本の護送船団的な経済環境こそが、
ここで指摘されている問題を引き起こしているのだ。

浅はかなオタクが何を言おうが、ひたすら煽てて
金を毟ればよいだけ
であり、その金をどう次の作品
へ投資するか、どのような人材を育成するかという
知恵のない業界自体の問題であろう。




オタクであろうが、なかろうが、どんな世界にも
保守的で発展を否定するタカ派は居る。
そのような声が大きいだけの粘着質人間を、
オタクの全てであるかのように言うのは
明らかに論理矛盾を胎んでいる。

であるならば、自らでで例示しているような
「優秀な作品」が「オタク」達に支持される
ことすら、そもそも無かったはずだ。

「オタク」の言葉の定義をアンビバレントなまま
使っているからこそ、そのような矛盾が生じる。


少なくとも、金さえ出せば有用。
金出さなければ無用なだけ。
金も出さずに騒ぐならば、やはり害悪であるが。

まんまるおなかの元気

  • 2008/07/14(月) 22:10:40

崖の上のポニョ

この作品は、大方の予想通りに人魚姫をモチーフにした
物語であるそうな。

その「まんまる おなかの 元気な子」と歌われている
主人公が示すように、そこで展開されるメッセージは、
これまでの「病的な」女性の美しさに対するイメージに対して
問題提起を展開されていることだろう。

本当の美しさとは、人に愛される可愛さとは?! …や、
本当の幸せとは? …といったことが提起されている
ことと予想される。

痩せていて色白で、目は二重で黒目がち。長い足、細い腕、
胸が大きくて、腰は太股程に括れている。

すべてがポニョとは正反対の特徴だ。

このような現代の美の対極にあるキャラクターへ
感情移入させ、またその子を可愛いと思わせる
ことによって、現代人の意識の転向を迫るのだ。



そのように考えると、
TVCMの歌がブツンとブツ切れになっているのは、
単なるイヤーキャッチ的にテクニカルな意図だけでなく、
その切られている部分にも意味を見出せてしまう。

つまり、
まんまる おなかの 元気…な あの娘
まんまる おなかの 元気…な お姉さん
まんまる おなかの 元気…な お隣さん
まんまる おなかの 元気…な お母さん
まんまる おなかの 元気…な お婆ちゃん
 :
まんまる おなかの 元気…な 私

と。

聞く者がなんとでも補えるように、あえて、
そこで歌われているのがポニョではなく、
聞く者が連想したソレを、歌っているのだと。
無意識的に刷り込んでいるのだとも言える。

なかなか啓蒙的な活動だこと…。



とは言ってもすでに、このような価値観の転換は、
ささやかながらすでに進行している。ジブリが扇動
しなくとも。
ここまではゆかなくとも、それまでの屋内で奥ゆかしい
という美人のイメージは、太陽の下が似合う健康的で
活動的な少女となっている。その上、カマトト的な。



以上はただ、ほとんどTVCMのイメージだけからの
発言であり、なんら内容に基づいた発言ではありません
ので、あしからず。内容が全然違っても怒らないでね。

1981-1996

  • 2008/01/16(水) 12:27:19

「機動戦士ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」

オープニングソングに掲げられたスローガンのような歌詞と、
それを満たし得なかったストーリーの結果とのギャップという
意味においては、この二つは似ている。

まず、前者も後者も共に閉塞感からの脱却のようなものを
歌っていると言える。

前者は正義と怒りによって動機付けようとし、
後者は残酷と情動によって動機付けようとしている。
その手段はそれぞれ異なるのであるが、意図するところは
似ている。


そして前者も後者も、見える光明が打ち砕かれるような展開の連続
であって、流されるように目先の事象に即応的に対処しているだけ。
主人公は世界に対して無気力で後ろ向きななまま物語は進行して行く。
最後までネガティブな思考のまま。

最後の最後に唐突に、なんだかよく分からない「希望」だけで
自分一人で納得して終わってしまう。


そして、それはどちらも“行為の結果として得た成果”ではない。
ストーリーの展開には、その結論を裏付けるようなエピソードに乏しい。

また、それら結論はどちらも「青い鳥」のように、
はじめから得ているものでもある…と言えそうなものでしかない。

これは逆に言えば、物語として何も終わっていない。
そこからいくらでもまだまだ続けることもできるし、
もっと前に終わらせることだってできたものだとも言える。


現に両作品は、未だに消費され続けている。終われていないからだ。

前者は、アナザストーリーとして、
後者は、パラレルワールドとして、
異なる方向に展開されていっているのではあるが。