民主主義とはバカに責任を被せる政治システム

  • 2010/09/16(木) 19:41:37

例えば、もし潰したい意見があれば、
その主張している者の中からバカを一人、祭り上げればよい。


そいつはバカだから放っておいても、勝手に失言か失態を演じる。
後は、そのバカさと共に、その主張やイデオロギーを抱き合わせて
共に社会的に抹殺すれば終了。


大衆はその政治ショー(と言っても対象は政治家だけではない)を見て、
自らの行動を改める。空気を読み、人の振り見て…、ああはなるまい。


そして、その生贄候補を炙り出すための「表現の自由」





為政者が悪政を強行する時も同じ。実質的な首謀者は影に隠れ、
旗振りをするピエロを一人立てておけば安泰。
愚鈍な大衆が、施行に遅れて、悪政の実態に気付いた時には、
そのとき旗振りをしていたピエロを悪の権化と扱き下ろせば、
実質その悪政の恩恵に最大限預かっていた者が標的にされる
ことはまずない。



これは、ネズミ講のような詐欺が繰り返されるのと似ている。


詐欺の主体は当然逮捕される
が、その下では、騙された者の中にも、
比較的早く参入した者は、確実にその恩恵に預かっているものだ。
ピラミッドの中腹で、被害者と加害者の線引きは、非常に難しい。

それを逆手に取れば、被害者の立場を取りながら、常に利得者でも
あり続ける存在
も居るはずだ。そのようなグレーの立場にある者を
淘汰することができないからこそ、ネズミ講のような詐欺は、
その頭を変えて、何度も繰り返されることになる。


民主主義国家の行く末も、そのような立場にある者によって、
方向付けられてゆくのでしょう。

行為と結果のプラス作用マイナス作用

  • 2010/09/15(水) 19:12:22

例えば、

どんなに違法は労働被害に遭っていても、

その被害を訴える者が、バカっぽかったら、

世間からは「自業自得」「だから出世できんのだ」
で終わる(ただし、美男美女は除く)。




違法な労働環境の是正を訴えて効果があるのは、

その境遇にありながらも、法律の知識があるような特異な事例か、

気まぐれで自分とは関係のない境遇にある者に同情的になれる者の存在が現れるか。


その二例を、待たなければならない。


後者の場合、エリート家族のバカ息子という事例によって
少しは生じる可能性が高い。





「自分が捨て石になっても」などと、殊勝な心持ちで
窮状を訴えたって、待遇改善なんて起きないどころか、
むしろ逆効果である。

「ああ、ああいう空気の読めないバカにはお似合いだ」

「もっと酷くても、いいんじゃね?」


結果、差別待遇の拡大に、自ら力を貸すことになる。

ともすれば、違法なことが、違法でなくなるかも知れない。

世間が「(雇用主の足枷を外す)規制緩和」を、
支持する根拠ともなってしまうから。


マスメディアを使って「クレーマーウゼー」だとか、
ヘイトスピーチを増長させることができれば、
大衆の声を反映したと称して庶民規制の口実を得ることも
できる。脊椎反射な正論の合唱は、それを与えてしまう。





そして、

あらゆる発言がポジション・トークであるに違いない

信じているに等しい反応をする者も多い。

「この○○に反対する奴は、××に違いない」

等々。



この二つを組み合わせることで、
対象をパラドックスに追い込むことも可能。

同じ人間の別人性

  • 2010/09/14(火) 19:38:11

階段を登ったら何しに来たか忘れた。

これは、人間は誰しも、
環境が変われば別人になる
そのことの証左だ
…とも言えまいか。

人は、目に映るものに脊髄反射で行動することで、動
作の効率を良くするために、普段、いくつもの
ガジェットを起動しているようなもの。


しかし、必要がなくなれば、それを外してしまう。


だけど、外すことで、別のガジェットを起動しておくことができる。

仕事場でのあれこれを忘れることで、例えば
家庭では良いパパを演じられる…というように。



人間だから、限界容量というものがある。

仕事に100%打ち込んでいる者ならば、その上にさらに
家族サービスを上乗せ起動なんてしたら、フリーズして当然だ。

いくつかを外さなければ、新しいものを起動しておくことができない。


ちなみに、私はこれを小人と呼んでいる。





さて、ここで最初の例えに戻って。


リビングで裁縫している私は、ハサミが無いことに気付き
それが必要だからと、取りに行くことを決める。忘れたのは
自分の部屋だったかな? と。

しかし、階段を登り、自分の部屋に入り、その景色を見た瞬間、
例えば、読みかけの漫画の続きだとか、好きな買ったばかりのCDを
もっと聴きたいだとか、裁縫で少し目が疲れて眠くなったから、
このままベッドに倒れ込もうかしら…等々の欲求が、目に止る
端からどれもこれもが一斉に起動しようとする。それらが
容量を取り合って前頭葉の処理が落ちる。これらが記憶として
残らないほど瞬間的な出来事として起きる。

そして、「あ、何しに来たんだっけ? 私…」となる。



リビングで裁縫をしていた私と、自分の部屋でくつろいでいる
時の私とが、別の行動パターン。行動形式を起動している
ある意味別の人間である
…と考えると、自動的な切り替えに
トラブルが生じてしまうことがあるのも、それぞれ異なる判断で
似た刺激・命令にも、異なる場所では異なる行動をしてしまう
のもあり得ることだと分かる。




緊張すると、いつも通りのことが出来ない。

…というのも、この例に含められよう。

心拍数の上がった自分は、平時の自分とは、もはや別人であり、
脳や体の決流量の違いなどで、同じ命令が同じ反応として
返ってこない。色々な反応の閾値を越えて流が変わったり
するのだろう。

故に、
緊張状態の自分を、緊張状態で自分を鍛練しなければ、
大舞台は務まらない。


大舞台でも緊張しないようになってもいいのだけど。



もっと分かり易い喩えでこれを比喩すると…、

プログラム式のおもちゃの車。プログラムは同じでも、
タイヤの大きさや、モーターの馬力が変われば、
同じルートを走れない。同じ軌跡を描かない。




減量のボクサーの例えでは、
水飲まない事なんかたいしたことないと高をくくっていても、
減量一週間後には豹変しているもの。

ダイエットに失敗しリバウンドを繰り返す人も、
飢餓状態と満腹状態では、別人なのだろう。