「ヤバイ」が誉め言葉となるのは

  • 2006/12/11(月) 12:59:40

その言葉の多様な用法を一言で言い表すと、
「心理的ホメオスタシスの転向」を指している。

悪い意味で使う場合、また一般的な旧来の意味では、
それは「身体的精神的な驚異を感じた」とか、その
「基盤を失う可能性」だ とか。

これが良い意味でも使われているのは、例えば…新しい発見
であったり、目から鱗が落ちると表現する場合の鱗のような
自分の思い込みが、単なる思い込みとして否定されてしまう
場合も、内面世界の恒常性の一部に対して、なんらかの形で改変が
迫られる
わけだ。

それが「ヤバイ



若者はその本質を的確に理解している…ような使い方をしている。
いや、その使い方を見ていて、矛盾する両者を統合する方便として、
私は先の定義を提案している(逆の順序だ)。

他人が作ったこれまで承認していない料理を、
さしたる意志も無くたまたま食べる。

陳列棚から自分で手に取ったのでも、それを選んだのだとしても、
「それでなければならない」というアイデンティティに直結するような
意志が無ければ、それは“たまたま”偶然に過ぎない。

その“たまたま”食べた料理が、予想外に 殊の外 旨かった。

今後自分の“好きなもの”の一つとして心のプロフィールの一覧に、
列記する
ことになるかもしれない。列記しなければならなくなる
かもしれない。その変更や加筆が、全体としてのホメオスタシスに
どう影響するか判らない。整合性を揺るがすかも知れない。

だから「ヤバイ」。「ヤバイかもしれない」。



例えば、あらゆるものには様々に「ラベル」が付けられている。
それが多義に渡りすぎて掌握できない。だから怖い。

良いイメージで採用した自分の一部としての好みであっても、
友人から「私と違う」評される排除のトリガーとなる可能性を
あらゆる言葉・形質が、潜在的に保有している。
言うなれば地雷が仕掛けられている。


好みを標榜することが、一種のロシアンルーレットになっている。


だから、
客観的評価を認めうるものを、良い意味で評するのであっても「ヤバイ」わけだ。

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