「反抗期」というのは必要不可欠なものなのか…?

  • 2006/12/07(木) 21:06:52

こころ「真」論 (That's Japan Special)
宮台 真司 高岡 健
ウェイツ (2006/11/01)
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宮台は、「反抗期の有無をどう受け取るか」を論議するために、
「自己のポジションに無頓着な者達が社会を構成しそれでも回る社会」と
「社会全体の中で自分の(部分的)役割を自覚しながら構成する社会」との
二分法を持ち出す。

それだけかい?!




彼の中では、幼少期=万能の楽園(社会=冷たい現実)といった価値観を
不動の前提に据えているとしか思えない。そうではないだろう?!

個々人が偏った未熟な存在である事を前提に、完成された人格へと
共通前提を身につけて社会に参画するといったモデルも考えるべき
だろう。そこでは反抗期の意味が逆転する。




例えば高度成長期前の…彼の言葉では「団地化」前の日本は、
多様な家庭環境の有った時代だった…と言うではないか?!

そこでは、「学校」とは社会に参加できるようになるために
「万能化する場所」であったろう。


例えば、家を継ぐ場合、物心つく前から家業を手伝い、大人でなくとも
すでに社会経済を構成する存在の一部である。
そして、そもそも社会に参加する能力をあえて何処かで身につけなくても、
その延長線上に、死ぬまで続くであろう未来像が、主観的には見えている。

併せて、そもそも偏っていることは当然であり、社会を知らなくとも
生活は出来てゆく。生活の糧を得る日々の労働の延長線上に、
段階的に社会を知ってゆけばよい。
そこでは、社会的な通過儀礼としての「卒業」のような唯一無二の
“絶壁のような段階”は無い。
だからこそ、全能感を否定する反抗期など必要無い





近代化とは、そのような形態を否定する事によって、
一足飛びに個人個人を同じ構成要因にしてしまうもの
…として、「学校」が必要だったのであり、その必然として
卒業までを、あらゆる可能性が等価に存在する場所として
いる…のだろう。羽化する前の卵のように失楽園前の楽園
として描くことになる。
しかし、その副作用として、「反抗期」という産みの苦しみが
不可分のものとなってしまった。…っといったところだろう。


そのように「子供はあらゆる可能性を秘めた存在」としない社会
を考えれば、反抗期の無いことがむしろ当たり前になるだろう。
極端な話ではあるが。
そこでは、反抗期のような症状が現れるのは、「家業を継ぐ事に
未来が感じられなくなったとき」に現れるくらいだろう。
もちろんこのモデルだけでは極端すぎて普遍的存在として認められる
ものではないだろうが。





学校化が完成すると共に現れた言葉「子どもの個性を認める」。
その言葉が生じた時に「子供はあらゆる可能性を秘めた存在」
とする近代的価値観も破棄すべきだったと私は考える。

もちろんあらゆるチャンスを誰にも公平に開いておくべきであって
それを否定するものではない。

そもそもにおいて、子どもを「個性が強く、その個性によって偏っていて、
それが故に未完成な存在」として扱っていれば、万能感を否定するという
プロセスを、義務教育の終演に集約させる必要は無くなる。
そのように集約された不安を反抗期という形で爆発させる必要も無くなる。



子どもたちが子どもたちだけでは意志の疎通が出来ないが故に、
それを可能とするためにこそ「教育」が必要なのであろう。
あらゆる個性を繋ぎ、社会を構成する多様な価値観の中で、
二律背反でもある利害の対立の中で、ともかく意志の疎通をし、
妥協し、共通理解を積み上げてゆくものだ…という前提が
教育現場にあるならば、

キリスト教的な原罪の認知のような、幼児的全納感の否定を、
教育課題にする必要も 無い。



そして、学級崩壊している現在の状況は、すでにその段階に
再び突入していると見るべきなのではなかろうか?
家業のような経済的自立に繋がるような基盤は一切無いが。

社会進出までを“無限の可能性を秘めた卵”とする暗黙の
共通前提がすでに失われているからこそ、昨今の若者が
「反抗期の消失」を悪いことだとは思わない…のだ とすると、
「こいつら頭がおかしい」という宮台氏の感想は的を外れている
ことになる。

もちろん反抗期の消失の良否はともかく、経済的な基盤を
どのように確保するのかを失ったままであるのならば、
「あほ」と言ってしまって十分な存在では有ろうが。




私が思うに、反抗期のようなものは、階層的に年中何回も
繰り返していればよいものだろう。なにも「反抗期」として
爆発しなければならないほどに鬱屈させるべきであるとは
考えない。

「反抗期」が校内暴力のような形で荒れ狂ったのは、
その時その時衝突すべき問題を、子どもの内は…、
小学生の内は…、学生の内は…、…と、どんどん先送り
してきたが故に、鬱屈し鬱屈し、自省が効かぬほど、
暴力のような情動までもが押さえられなくなるほどに
集約・抑圧されていた…ってことなのだろう。


家庭内暴力、校内暴力、族・ヤンキー。それらは傾向として
順々にその爆発させる年齢を上げて行っている過程だとも
読めるはずだ。その先は、学校を飛び出しているので消えて
しまっているように語られているが、それはそのまま高齢に
延長し、犯罪となって続いている。大学生の乱交のようなもの
だとか、今も未だ続く「振り込め詐欺」のような形で、
表社会に出られないモラトリアムとして連綿と続いている。
大多数のフリーターも…小泉改革で雇用の置き換えで
急拡大させる前までは…その一部を担っていたと言えただろう。

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