失われた見えざる教育環境

  • 2006/12/06(水) 12:07:53

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源
マーク・S. ブランバーグ Mark S. Blumberg 塩原 通緒
早川書房 (2006/11)
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是非とも読んで欲しい。
知識を得るために…ではなく、マインドを切り替えるために。

戦後、子供達から奪われた生育環境が、
現代の大人達があたかも「人間の本能」だとでも思っているものを
どれほど奪ってしまったか…に、想像を巡らしてみて欲しい。



ラットは幼児期に固形物を食べないと、
喉が乾いても水を飲むことができない…という。
これほど本能と言って疑いの無いような生命の維持に関わる事ですら、
学習が必要なのだ。


自殺者が増えていると言われる学級に(私はそのピークを
1990年頃と見ており減少傾向の中にあると考えているが)、
単純に「子供が弱くなっている」だとか子供の怠慢でしか
ないような言説を…自らの実感に基づいてであろう…
しばしば耳にするが、彼らは私に言わせると「自らの受けた
恩恵に無自覚すぎる
」と思えてしまう。
同時に、その「自らの受けた恩恵」を社会に、次世代に、
なんら受け渡していない無責任さとを併せて。



今時の子供は、ラットの例に対応させて語り直せば、
のどが渇いても水を飲む量を増やせないラットのように、
“固形物ではなく流動食を食べさせられる”のだ。

つまり、受験偏重なままの「合理的な教育」という「流動食」
しか、食べさせられていない。固形物の接触を禁止されている
ようなものだ。水を飲めずに命を危険に晒していることに
対応できないラットのように、今の子供たちは、水を飲む…
生きる希望を見出すことができない…であろうことを真摯に
見つめることなしには、教育環境の改善も、生きる力を備える
こともないだろう。

そして、今のセイフの目指している教育バウチャー等の
競争原理は、あたかも「より消化の良い流動食」を作ることを
目指しているようなものだ。
水を飲むことも学習できないラット…つまり生きる希望を見出せない
子供達を、より多く産み出すことになるだけだろう。



ラットの子が渇きの一形式を飲水の欲求に結びつけられない…<略>…もし水を飲むことが本能なら、このラットの愚かさをどう解釈すればいいのか?

「水と安全は無料」そう信じるに至るほどの完璧な治安装置は、
そう“本能のように”先天的な日本民族固有の形質だ と盲目にも
信じた事によって、それを破壊することに何の躊躇いもなくなった。

そして、壊れた今。「水と安全が無料」であったその人為的治安装置が
何であったかに目を向けることなく、ただ情緒的に当時を懐古して、
「人心の荒廃」だと嘆くばかりだ。彼らは自らの受けてきた恩恵に、
どこまで無自覚なのだろうか。

ただここで補足せねばならないのは、「自覚しても返さない者」も居るわけで、
無自覚は自覚することによって後の対応が大いに期待できる対象でもある。
自覚していてもそれを返さない今時の若者に比べ、「恥」の意識が高いのは
団塊前後のいわゆる現時点でのいい大人達であろう。そこに期待したい。

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