インテリジェンス・デザイン

  • 2006/12/04(月) 12:55:33

そのような考えが大衆の心理をとらえる時とは…、

政治(組織的意志決定)の現場から大衆が閉め出され、
その過程を想像する事が出来ないほど乖離されている。

その時、指導者の意志決定は、あたかも神の無謬に似た印象で、
“決定的で不動な他の選択肢の無いもの”として受け止められる。

当然ながら、それを成立させてしまうのは大衆側の思考停止が
ある。複雑な課程に思考を広げる事を苦痛に思うようになり、
嫌がり、論理を単純化してしまう。が故に、多くのもの
を無謬にしてしまう。

政治家にしてみれば、なんとも自由で都合の良い時代だろうか。





ただ、その無謬も神話であることに自ずと国民は気づくようになる。

それは、単純化された世界の中だからこそ、多くの「基礎」や
「常識」が無意識的に統一されてしまっているが故に、脳に
余裕が生まれている。その余裕が「アソビ」を求めるからこそ、
複雑と敬遠していた領域に目が向くようになる。

だからこそ「作られた神話」の「作意」にまでも気づけるようになる。





“どのような現実”も“ありのままに認める”事を求める
「愛国心」とも親和性が高い。

そしてこれは、文化が成長する過程…必然的な輪廻として、
ある側面では不可欠な期間だとも言えなくはない。
死す定めを負っている人間の作る社会の抱える問題として。
知恵の文化の「伝承」という問題を、創造性を高めるために
時にはそれを簡略し、時には強化しながら乗り越えてゆく
ために…。


だが、この期間が長ければ長くなるほど、
不合理なものに忠義を尽くし、
不幸な状況に捕らわれ続ける
…そんな禍根を残してしまう。

それを回避するのが困難なのには、何時の時代にも必ず、
大多数の不幸によって富と幸せを享受する者が存在する。
その地位は不動の関係では無いながらも、入れ替わりながら
常に残り続けることになる。

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