怒りを通り越して呆れている

  • 2010/09/11(土) 12:40:14


怒りを通り越して呆れている



すっかりこの言い回しが定式化してしまっていて、発言者が
本当に「怒る」を「通り越して」いるのかどうか、怪しい。

使用している人は、「怒る」の最上級だと思って選んでいる
のだろうか? そうかも知れない。けれど、

相手が感じる驚異は、相手に与える敵意は、どう考えても、
「呆れている」より「怒っている」状態の者でしょう。


傍若無人な異端者にとっては、
自分に向かって怒っている存在は、直接的な驚異
だけど、
呆れている存在は、自らに積極的な働きかけをしない者、
居ても居ないのと ほとんど変わらない存在である。


何の脅威も、感じることは無いだろう。



この言葉で私の感じる印象は、もはや、
TVのお笑いでツッコミの言葉として「死ねっ」と言うようなもの。
実際には死んで欲しいと思っているはずもなく、怒ってすらも
いない。そのような言葉を許容できる信頼関係で結ばれてる。

単なる表現だけのインフレであって、その実態は、
省エネに他ならない。

より楽に、安楽に、建前としての怒りの表現を、
より強く見せているフリがしたいだけなのだろう。

顔色を良く見せるために、運動で健康を手に入れるのではなく、
化粧で誤魔化すようなものと同じ。





さて、とは言え、

元々この言葉が驚異を表す言葉になったのは、いったい
どのような背景からだったのでしょう?


私の考えるに、おそらくたぶん…、


終身雇用が当たり前の永続的な社会の中で、
叱られて指導を受けている状態と、
諦められてネグレクト状態にされている状態の比較で、
前者が後者より社会的に酷い状態であったことから、
この言葉が驚異になっていったんだろう。

「村八分」や「業界から干される」といった言葉と
類似した表現として。





しかし、今のように簡単にリストラに走り、
非正規雇用が常態化し、首を切られて はいサヨナラ なのだから、
「呆れられ」たって、関係が切れているのだから、何の驚異もない。

個人を対象とした憎悪を向けてくるような「怒り」ならば、
例え関係を切ったからといって、その怒りの矛先から逃れられる
わけではない。例えばストーカーのような存在として、脅威が
続くことが予想されてくる。




こう考えると、

もし本当に、強い怒りを感じているならば、
憂いを感じているならば、


怒りを「通り越して」なんていてはダメでしょう。


そんなもの、怒りを押し殺した、押しとどめたのと
結局は同じ状態に居ることに他ならないのだから。


しっかりと、怒りという山に登り、留めていなければ。


怒りとは、丘の上に陣を張るようなもの。よく目立つ。

怒りを通り越すのも、そもそも怒ることすらないのも、
共に、丘の下、平地部分にあることに変わりはない。
怒りも無く無頓着なその他大勢と共に、紛れてしまだけ。



いずれこの言葉は、「泣き寝入り」と、ほとんど類似の意味しか
持ち得なくなっているかも知れません。


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