さらしものの必要性もあろうに

  • 2006/11/29(水) 23:47:27

晒者にすることは、罪人に社会的制裁を与えることであるが、
それはまた同時に、罪人に許しを与えその認識を共有する場
でもあっただろう。



現在では、前科者対する偏見は容易に拭えないことが問題と
されているが、それは逆に言うと当然であると言えるのかも
しれないと考える。

お勤めを終え、罪を償ったのだから…と、罪歴を隠したり、
罪を償った者が、なお差別に苦しむのは不当に罪が加算さて
いるのだと見なしたり…と、その隠匿の法治下で、善悪が
大衆の中で共有されてゆかなくなるのは当然のことだ。



「モラルが乱れているのは教育が悪いからだ」と言われるが、
私に言わせると、法体系が悪いからだ と思う。
それは「政治が悪い」という表現でも良いはずなのだが、
こう言うと立法とは無縁の「権力者が誰であるか」という
ような感情論として受け止められてしまう。未だ日本は
大名統治下の封建的治安機構が根深く染みついている。


罪人を罪人として晒すことは、何がどの様な行為が罪であるのかを
社会で共有することであるし、罪人が罪を犯した酬いとして、
どのように苦しんでいるのかを現実に目の当たりにすることによって
犯罪抑止に繋がるという側面もあったろう。

それらを総じて隠匿してしまっている今の法治構造では、
モラルが育ってゆかないのも、なるべくしてなっているのだ
と言ってしまうべきであろうと考える。





もちろん差別を放置すべきだ…と主張しているのでもない。

ただ、犯罪被害者に対し社会が罪人に対して許しを求めるのも、
それを認め得るだけの社会的な安心感を取り戻すことも、個々人に
帰して済ませてしまえるものではないはずだ…と言っている。


何より今の報道の作り上げる社会構造のあり方が悪い。

罪の確定していない…冤罪かも知れない…罪人だと言い切れない
者を吊し上げるような形で、社会的制裁を繰り返している。
そんな中では感覚が麻痺してしまう。

罪が確定した者をその確定した罪によって善悪を共有する訳では
ないから、無罪を主張する者が同時に存在する中で、具体的事例
としてそれを規範意識に反映させることは出来ない。

それをしてしまえば、事件報道はできなくなる。いや、神話化
せざるをえなくなる。誤った報道ができない。報道を誤っても
白を黒にしてしまわなければ、治安意識が緩んでしまう。
だからこそ、警察無謬・官僚無謬の神話を作り上げる片棒を
担ぐことになる。でなければ、怖くて報道が出来ないから。





人と人が安心して暮らせるのは、
一つには同一の価値観を共有し、お互いがそこから一切
はみ出していない事を前提と出来る状況を作り上げること
だろう。であれば、何ら不安を覚える必要はない。

しかしながら、そのような世界では、確実に他人と異なる部分を
誰もが確実に保有している個性ある集団では、自らがの個性を、
人格を、存在を、否定しながら生きてゆかねばならず、そこに
罪の意識を感じ続けなければならない。

逆に、そんな共通の価値観をなんら持たなくとも、
どんな場面で感情を抑制できなくなる…だとか、
どのような隙を見せればそこに付け込んでくる…だとか、
相手の行動パターンを知り尽くしてしまうことも、
不安を感じなくなる一つの手段だろう。
いわゆる「底が知れる」と言う状況だ。


そこでは、対応は人それぞれに個別に異なり「誰もを同じに考え、
同じように付き合う」ことは出来なくなるであろう。
しかし、そんな制御されたロボットを相手にするような社会より
遙かに豊かな社会になるのではなかろうか。

そして、精緻に社会参画している者ほど、多くの成員を知り、
安心した生活を送れるのであって、社会から隔絶して他人と
関係を結ばない者ほど、社会に不安を覚えるようになるはずだ。

逆に言うと、「誰もが同じ」というという神話を作り上げて
しまったからこそ、他人に無関心でいることに安心を覚える
ようになったのであろうし、その無関心が犯罪を助長させる
ことにもなったわけで…。

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