同じ人間の別人性

  • 2010/09/14(火) 19:38:11

階段を登ったら何しに来たか忘れた。

これは、人間は誰しも、
環境が変われば別人になる
そのことの証左だ
…とも言えまいか。

人は、目に映るものに脊髄反射で行動することで、動
作の効率を良くするために、普段、いくつもの
ガジェットを起動しているようなもの。


しかし、必要がなくなれば、それを外してしまう。


だけど、外すことで、別のガジェットを起動しておくことができる。

仕事場でのあれこれを忘れることで、例えば
家庭では良いパパを演じられる…というように。



人間だから、限界容量というものがある。

仕事に100%打ち込んでいる者ならば、その上にさらに
家族サービスを上乗せ起動なんてしたら、フリーズして当然だ。

いくつかを外さなければ、新しいものを起動しておくことができない。


ちなみに、私はこれを小人と呼んでいる。





さて、ここで最初の例えに戻って。


リビングで裁縫している私は、ハサミが無いことに気付き
それが必要だからと、取りに行くことを決める。忘れたのは
自分の部屋だったかな? と。

しかし、階段を登り、自分の部屋に入り、その景色を見た瞬間、
例えば、読みかけの漫画の続きだとか、好きな買ったばかりのCDを
もっと聴きたいだとか、裁縫で少し目が疲れて眠くなったから、
このままベッドに倒れ込もうかしら…等々の欲求が、目に止る
端からどれもこれもが一斉に起動しようとする。それらが
容量を取り合って前頭葉の処理が落ちる。これらが記憶として
残らないほど瞬間的な出来事として起きる。

そして、「あ、何しに来たんだっけ? 私…」となる。



リビングで裁縫をしていた私と、自分の部屋でくつろいでいる
時の私とが、別の行動パターン。行動形式を起動している
ある意味別の人間である
…と考えると、自動的な切り替えに
トラブルが生じてしまうことがあるのも、それぞれ異なる判断で
似た刺激・命令にも、異なる場所では異なる行動をしてしまう
のもあり得ることだと分かる。




緊張すると、いつも通りのことが出来ない。

…というのも、この例に含められよう。

心拍数の上がった自分は、平時の自分とは、もはや別人であり、
脳や体の決流量の違いなどで、同じ命令が同じ反応として
返ってこない。色々な反応の閾値を越えて流が変わったり
するのだろう。

故に、
緊張状態の自分を、緊張状態で自分を鍛練しなければ、
大舞台は務まらない。


大舞台でも緊張しないようになってもいいのだけど。



もっと分かり易い喩えでこれを比喩すると…、

プログラム式のおもちゃの車。プログラムは同じでも、
タイヤの大きさや、モーターの馬力が変われば、
同じルートを走れない。同じ軌跡を描かない。




減量のボクサーの例えでは、
水飲まない事なんかたいしたことないと高をくくっていても、
減量一週間後には豹変しているもの。

ダイエットに失敗しリバウンドを繰り返す人も、
飢餓状態と満腹状態では、別人なのだろう。



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