嘲笑制裁

  • 2006/11/29(水) 12:30:16

嘲笑は社会規範から逸脱した者への制裁である。

それはそれのみで社会を構成する為の一つの機能であり、
それを認めなければ、場合によって社会の機能を破壊してしまう。
民主的(大衆優位)社会で有ればあるほど、その危惧は高まる。

そして、
これこそが昨今話題の「いじめ問題」の根本的な部分に位置する。
イジメが深刻化するかどうかのターニングポイントでもある。

些細なことであっても、イジメの標的となるきっかけは、
子どもの中でのそのような「逸脱」の「気づき」にある。
自覚的であるか無自覚であるかに関係なく。




だからといって、その行為のみで善し悪しが決し得るはずもない。

尤もな社会規範、公正・正義に基づいた嘲笑であれば、それを
禁止してしまえば、モラルは壊滅的なダメージを受ける。

その「逸脱」の中身による。


例えば、「逸脱」が人一倍正義感に篤く、怠惰な側がそれを
邪魔で煙たく思っているのであれば、当然ながら制裁すべきは
「嘲笑」を浴びせる側。いじめる側を指導する必要が有ろう。

また例えば、社会規範からの「逸脱」が嘲笑されていて、
イジメ被害者の側が、その「逸脱」に気づいていない場合
もあろう。その場合の指導は二つに分かれよう。

子どもの多数が「逸脱」と感じている特徴を教師が見定めて、
その内容を、客観的にいじめられる側にも気づかせてあげる。
その「逸脱」が本人が意識すれば簡単に直せるものもあろう。
それによって態度の変更に勤めるか否か。その決断を本人に
意志表示させる。

その「逸脱」が極々他愛のないことであっても、なんであっても
「転向は即ち敗北」だ と見栄の固まりであれば、その意志表示を
そのまま受け入れる訳にはゆかない場合も中にはあろう。ただ、
その「逸脱」は客観的に認知させる必要がある。



もちろん、「逸脱」を意識させずに無自覚なまま、子ども自身の
同調行動の行き着く先として自然に修正される見込みがあるの
であれば、その方が指導として正しい場合もあるかも知れないが。


その「逸脱」が、子ども自身の夢やプライドに関わり一生を左右する
ものであれば、その「逸脱」は夢を実現させるために避けて通れない
障害として、それに立ち向かう覚悟を促すのが正しい指導であろう。

モラルや規範や個人的拘りとは無縁の、回避不能な身体的特徴で
あったり善悪の指標となり得ないものであれば、特徴は特徴で
認めるとしても個性は個性として受け入れる態度を、その他大勢に
指導する必要が出てこよう。




ともかく指導は欠かせない。
ありのままの個人を、完全に隠匿し、見て見ぬフリをする
…欺瞞によってさも平等であるとでも言って…偽りの指導を
取ってしまっては、互いにとって不幸である。

そのように扱われていることに、子どもの側で自覚されてしまえば、
「偽りのペルソナを被り続けなければこの世界では生きて行けない!」
という事を学習することになるであろうし、無垢にもそれを自覚して
いなければ、将来どこかで必ず衝突するであろう困難に対して、
事前に免疫を身につけておくチャンスを奪うことであり、
「自分を知る」という個人の持つ根元的な欲求を抑圧する
ことにもなりえよう。

そして全体では個性を認めない息苦しい社会へと誘導してしまう。






「個性」としてその後の人生の糧となる特徴である
「みにくいアヒル子」タイプもあるわけで、過保護の
是非も個別的に考える必要がある。

“生得的特徴ならば、何が何でも指摘してはなぬ”とでも
言うような形で、表面的に正論っぽい人権論がまかり通る
風潮があるが、それは、「悪平等」と言われる根本であって、
多様性の否定であり、個性の否定でもある。

日本の不幸は、多様性を認めるべきはずの社民の中に、
「善悪二言論」のような形で、画一的価値観が拭い難く
残り続けていたことであろう。
戦前から通じる暗黙の前提に無自覚なまま、あらゆる論説の
論理構造に、根を張っている。それらは、意識的に取り除き、
言い変え、語り直しをしなければならないように思う。


当然のように通用している「説得力」のようなものの中には、
無意識の前提との整合性に流される瞬間的な印象だとか
過去の正論との間の類似性のようなものが含まれている。

その無自覚の究極の先、無責任の先にあるのが「空気」と
いう言葉によって表現される圧倒的な人心強制装置が
生まれてしまう。

何故、あんなバカなことを! あったりまえじゃないか!?
何故、誰もその時に気づかなかったのか?!

そのような後悔によってトラウマを刻むべきではない。





当然、子どもの側には「面従腹背」という選択しも有るのだが、
それを道徳の象徴である教師や学校関係者が「教える」訳にも
ゆくまい。
それはよりローカルな関係の中で伝えてゆかねばならない。
先輩後輩の関係であったり、大人を含めた地域サークルの
ようなもの。
ただ、治安に過敏すぎる今の日本は、どのようなサークルも
非行の始まりや、反政府活動の萌芽として認知される段階が
早すぎるように思える。だからだろう、どんどん萎縮し、
消滅していっている。

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