配置されるべき「楽園」

  • 2006/11/18(土) 18:23:57

大多数の知識人は、
子供の時代」を「楽園」として描きたがりそれを「常識」としている
が、そうではなかろう。私はそう思うのだが、辛く厳しい社会との対比
として、その落差と乖離は現在極限に達している。


例えば、いわゆる牧歌的な古いコミュニティの描く世界観は、
子供から大人までが所属する楽園として描かれ、今現在「社会」
と呼ばれているような領域は、異界であり、コミュニティの外
であるではないか。

弱肉強食で子供の世界とは全く異なるものとして描かれる「社会」で、
相互補助の行われる“社会”が、描けるはずがないではないか。
モラルやマナーが築き上げられてゆくはずがないではないか?!




戦後民主主義…今は「社民」と蔑視されるような…が、失敗したのだ
と認知されているのは、その「楽園」として描けるはずの社会を
怠惰・飽食で、大量消費として描いてしまったことだろう。

省エネ・質素倹約にすべき楽園のエリアを、大量消費こそが
幸せの証明として描いてしまったからこそ、国レベルで経済的に
破綻せざるをえなくなった。

楽園は、質素倹約であるべきであり、最低限度の幸せと、
連綿と続く文化 として描かれるべきであったろう。
そうであれば、公的領域で財政破綻することもなく、
また、弱肉強食で殺伐とした未来しかない現実に、
絶望して自殺を選択する純粋な子どもらを出すこともなかった。
彼ら彼女らに提示できる処世術として「偽悪者になること
のみしか提示できない。

「“社会に出ること”が“辛く厳しいものである”事」を、
“真実である”と、強調すればするほど「隣の奴はみんな敵」
であり、「自分の守るために隣人を蹴落とす」ことが処世術に
なってゆかざるをえない。




だから、貧乏くさくても「楽園」を基盤に社会を作り、
贅沢をしたい奴は、贅沢に見合ったリスクと責任を負う
ようにすればいい。かといって、競争に次ぐ競争の中で、
「破れたら首を括らなければならない」としてはダメで、
それでは生存権によって不正・圧政を個人の中で肯定さ
せてしまう。それを認めさせないが故に、敗れた者には
幸せで敵意の無い「楽園」を作り、速やかに引退して
いただく。“救いとしての引退”を準備するのだ。

だがしかしその「楽園」は、ゆりかごであり墓場でもある。

1980年代の「学校化社会」のように、その中に拘束し、
目を塞ぎ、耳を塞ぎ、飼い殺してしまうのでは決してなく、
生きる活力を満たしたら、挑戦するに足る夢を見つけたら、
速やかにそこから出られるようにも しておくべきでもある。



でも、いわゆる「失楽園」のテーゼのように、「楽園」とは、
できるなら今直ぐにでも脱却しなければならない場所…とうような、
最終的に根絶すべき場所である…とでも言うように、
今現在「社会」と呼んでいる弱肉強食の万人の万人のための闘争
であるリヴァイアサンな状況のみをリアルな現実として唯一無二
なのだとしていては、純粋で本来賞賛されるべき聖人が、欺瞞として
糾弾される言論を増長するであろうし、彼らが自殺(または過労死)へと
追い込まれせざるを得ない社会を拡大することにもなる。

純粋で聖人であるような人は存在しうるだろうし、また、そのような
境地を真剣に目指している者も居るはずだ。たとえ到達し得なくても。
少しでも近づきたいと望む人が。そして、純粋で潔白な子どものまま、
死ぬまで汚れたくないと願っている少年少女も。

そのような気質の人間を存在を認めるには、そしてその方々の
願望を奪わずに、同時にその恩恵を得られる。「楽園」の配置は
打算的に言えば一石二鳥の構造だ とも言えよう。



ある意味において、今進んでいるような「美しい国」は、国全体を
そのような「楽園」へと改造しようとするものだ…とも言えるのかも
しれない。

そこでは逆に、動物として健全な欲望に純粋な人間が、罪に脅え
罪悪感に苛まれ、生きて行けない社会となろう。窒息しそうになって
喘ぎ、反社会的行動で自滅する…自殺とは正反対の病的奇行が突発
することになろう。それは「学校化」が今なお成功している場所では
継続的に確率論的に発生していることであろうもので、「美しい国」を
目指すという根拠とするには矛盾した現象であろう…と、私は考える。





日本は「八百万の神の国」だと言われるが、私はそれを信じない。
打算的で二枚舌の人間が、我田引水をしやすくするための欺瞞を
覆い隠す仕組みとしての「八百万の神」という言い訳であり、
大多数の人間は、相当程度一神教の頭で行動しているのであろうと。

だからこそ、この国の大衆心理は容易く染まり大きく振れる。

多様な価値観を同時に許容する精神に満たされていたならば、
そのような現象が生じるはずはないではないか?!

何故、村八分にするのか…イジメは無くならいのか?
何故、易々と伝統・文化を捨ててしまえるのか?
何故、流行遅れダサイとして根絶まで徹底しようとするのか?

そんなもの、放っておけばよいではないか?!
異なる領域を体現しているのだと、認めればよいではないか?!
自分のしたくない事を あえてしてくれているのだ と、打算的に
利用していればよいではないか?!

おだてたとて、なんら損をすることも無いのに…。

何故、異なる気質の形質の者を排除しようとするのか?!
何故、

やはりそれは頭が一神教だからだろう。






子供時代…幼少時代とは分ける、青年と少年の間としてのそれ…は、
私はそれこそ弱肉強食の競争時代であっても良いと考える。いや、
むしろ、そこでこそ競争を持ち込むべきでは無かろうか とすら考える。

子供であるので、そこでの脱落者は、今の「社会」ではそうであるように
「見えないところで死んでくれ」として扱うことができない…であろう
からだ。

そして、「辛く苦しいのも、社会に出るまで」であり、今のように、
一部の勝者以外は、「社会に出れば辛いことしか待っていない」
ただ絶望に向かってカウントダウンされている…そんな心理状態に
苛まれることもない。

また、それを辛くもなんとも思わない優秀で向上心のある人間には、
その延長線上で、がんばってもらえばよく、また、そこで疲れスランプに
陥っても、前のめりに倒れるだけの、人間を使い捨てにする構造の中で
働くのではく、後ろには数多交代要員が控えている…というような
循環された、相互に補完し合う構造が機能するだろうに。

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