「愛国」を強いられるのは「国の外」にいる者

  • 2006/10/05(木) 12:18:57

三島由紀夫「
愛国心の「愛」の字が私はきらいひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、
国の一員であるにもかかはらず、
その国といふものを向う側に対象に置いて、
わざわざそれを愛するというのが、わざとらしくてきらひである。
もしわれわれが国家を超越してゐて国といふものをあたかも
愛玩物のやうに、愛するといふのなら筋が通る。
それならば、本筋の「愛国心」といふものである。

彼もまた、主格として国家に対しているところが、戦中と大きく異なる。
のではなかろうか。彼もまた戦後に染まった人間とも言えるかも。
ただ、国家と自分が…どんなにそれが不満足なものであっても…
切り離せない関係にある…という現実に強く自覚的であるのだが。


ここで指摘されたとおり、「愛国」というのは、
「国」と「切り離された存在」が使い、また強いられるものなのだろう。

彼が言うように、国を私有化した私有者が、あたかも道具のように
「愛国」といって、自分の好き勝手き改造し、玩具にする。

そして、その指導者に“いいように使われる”大多数の国民は、
国の意志決定に関与することままならず、そこから排除され、
切り離され、国の意志決定機関との間に情報の繋がりは一切無い。
だから、邪魔ならば平然と殺される。お荷物は簡単に見捨てられる。
死ぬと解っていて死地へと送られる。特攻の道具にもさせられる。

「愛国」という言葉によって、共同体からの排除か帰属かを、
選択させられる。

命令に反対すれば、「非国民」として民族的アイデンティティーを
否定され。取り上げられる。打ち砕かれる。
従えば、自らの意志とは無関係に、死を前提とした作戦に投入される。
どちらを選んでも「死」しか待っていない。

それが「愛国」を前にした、「国家」と「国民」との関係なのだろう。

決して一体となれない、いや、死によってのみ一体となれる関係。
それが「愛国」の前での「国」と「国民」との関係。
それは決して触れられない「神」と「人間」との関係に似ている。

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