色違いのフリーサイズ

  • 2008/11/28(金) 20:09:37

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?
メアリアン・ウルフ
インターシフト
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以前読んだ戸塚氏の本「子どもの脳と仮想世界―教室から見えるデジタルっ子の今
で、微妙に足りないと私が感じていた箇所(↓)に、正面から焦点を当てて
現在での異常者が十数年後の多数派であるこの世にて
書かれた本を見つけた。

昨今復活しているツメコミ教育御復古によって、正に淘汰されて
しまいそうなそれを、ここでは救おうとしている。そのような活動が、
科学的支援を受けて行われている。それがきちんと成されている
という意味では、その部分のアメリカって国をうらやましく思う。


そして、私が常々「血液型占いのようなもの」の存在をあえて
肯定してみせている動機の核心もそこにある。

これまでの平等教育や、変な差別批判による平等意識の前提が、
先天的に考え方の異なる人間の存在を認めようとしない、
見ようとしない態度に問題があることを指摘したいから。

そのような者は、いくら「平等」に扱われても、秘めたる才能は
決して開花しない。しないどころか、無能な人間として隅に
追いやられてしまい、永遠のディスコミュニケーション状態に
置かれてしまう。さらに追い打ちをかけるように、不安な世情を
受けて、社交性の弱い人間は全て犯罪者予備軍であるかのような
論調までもが生じている。
これらは、戦後日本が「強い」と言われてきた技術立国、
正にその「基盤」を破壊し尽くした証左であるとも言える。
営業マン至上主義のような…。会話能力=人間性のような
価値観が、合理的で堅実的な成長を阻んでいる。黙々と
黙って手作業を続ける職人(&予備軍)を、冷遇し続けている。

わかっていることを、何をどう教えるか、それが特定の子どもに有効か否かということと結びつけていく以外にはないのである。
 <中略>
どの学校でも採用しているような、誰にでもぴったりというフリーサイズのアプローチは役に立たない。私たちが必要としているのはむしろ、さまざまなタイプの子どもたちに応用できる原理がたくさん詰まった道具箱を使いこなせるように訓練された教師である。プルーストとイカ/メアリアン・ウルフ
私はこれまで1970年代以降のゆとり教育を求める声は、このような教育をこそ求めてきたのだと思ってきた。昨今漏れだしてきた本音のようなものに触れ、どうやらそれは間違っていたことを知った。ゆとり教育反対論者が反対理由として懸念していたような「思い込み」を、賛成論者の側が追い求めていたって事だったのだろう。反権力とは反対者(権力者?)の嫌がることをこそすべきだ…とでも信じていたのだろうか。そこに、要望と中身のすり替えも行われて。

これまで、教える内容はどんどん削られ、教科書はどんどん薄くなり、ツメコミ教育の効率化ばかりが進められてきた。教師は、それによって生徒を個別に見ることができるような時間ができたわけではなく、ますます画一的指導が進み、スケジュールはみっちり埋め尽くされしまっている。これこそが正に「誰にでもぴったりフリーサイズ」ってもの。そして、学習塾で教えるような受験テクニックのスキルアップこそが勉強であり、教育であるような事になってしまった。昔以上に受験(テストの点数)信仰は根深くなっている。


個別に個々人に見合った指導さえ行われれば、きちんと学習できる個性的子どもが、自信を持って社会に出たならば、その個性によって、普通の人には考えられないようなアイディアを発揮するであろう。優秀で個性的な人材を、この社会はもっと活用できたであろうに、その恩恵に預かる事もできたであろうに。そのような目は、今の教育によって、そうそうに摘まれてしまっている。画一的指導に合わない者を、それ故に無能者であると決めつけることによって。そう決めつけるためのお墨付きのようなものになった。

そのような教育が「個性尊重」のかけ声と共に進められてきたのが、なんともアンビバレントだ。そこで言う「個性尊重」とは、「個性を伸ばす」とは、今の教育に合う者を…学習塾に通える金持ちの子が…ますます優遇されるような事を意味していたのだろう。確かに、そうでない子をほったらかして見捨てる事によって、相対的に、勉強ができる子の側が優秀であるとして引き立てられてきた。そうやって「その子の個性」は伸ばされてきた。確かにそう言ってしまえば矛盾していない。もちろん、大多数の「個性」はまったく尊重されていやしないのだが。教育現場での二極化はずいぶん前から指摘されている。


「習熟度別指導」と言っても、指導方法そのものが画一的であれば、それはそれが合わない者にとっては、底上げにも何もならない。ただ、屈辱的な足止め期間にしかならない。言い換えれば、劣等感を植え付けるためだけの染脳機関だ。
個人的に私は、生徒同士で教え合うことで補うことがよい…と考える。頭の柔らかい子どもは、色々な教え方を大人以上に柔軟に試行錯誤するし、修得した側は勉強のできる子を尊敬したり感謝したりもするだろう。また、勉強のできる側に居る者も、自分なりの考え方だけではない同じ結論の導き方、知識・技術の異なる修得の仕方のあることを、そこで学習する。その多様性の実感は、何れ指導者になるであろう者ならば、それこそ、何より必要な能力であろう。そう考えると、権力者と大衆とのディスコミュニケーションは、この時点からすでに始まっている。啓蒙の思想が…みんなで共に生き、率いることが、全体としてより豊かな社会を実現させられる…ことが当然となる。今のような…優秀な者だけ引き立てて、儲けさせて、残りの連中には適度に「施し」をしておけば、満足させられるだろう…というような、封建的な社会と比べて。

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