人種意識の構築を準備した時代背景

  • 2007/11/28(水) 18:31:18

大航海時代〜植民地支配の中で、この頃

貴族として絶対的身分制度の中で安穏としていた連中が、
初めて、自己を相対化する視点を身につけたのだろう。

見下していた庶民階級が、新世界やアフリカ・インドにて、
莫大な富を得て政治的発言力を増している現実や、

自国にも入ってくる中で直接目にするようになった外国人奴隷の
その圧倒的な人種的形質の違いに対して、
これまで見下してきた自らの使用人と、自分との外見的類似性が、
際立って意識されるようになってくる。

身分制という神の定めたもうた理に揺らぎが生じてくる。



人種意識の構築を準備した時代背景

同時に、自分が使用人を冷遇することが、
直ちに、黒人に自分が虐待される可能性を、強く連想させる。

家畜を物品のように商品管理し始めた20世紀の中頃に、
「人間を家畜管理するという“宇宙人”」という「信仰」が
生まれ広まったのも、それと似たように、自らの行為を客観視する
ことが出来るようになることによって、その行為を転倒させて
自らに降り掛かった場合をも想像できるようになる。

それが想像させられる事による恐怖が背景となっていたのだろう。


その恐怖を払拭するために、自らと外見の類似する
同族の使用人の扱いを「人間らしく」改めることであり、
自らの勢力がその権力を安泰に保ちたいと考える心理が、
民族主義の正当化の論理構築に先立っていたのだろう。

そのタテマエの裏には、大衆・被支配層を、自らの権力基盤と
「運命共同体」へ動員し、そこに組み込むホンネもあったはず。

その正当化された論理が大衆に浸透した(してしまった)後に、
世界大戦へも発展しうる大衆的民族主義運動の如きものへと
繋がってゆく。



そこではまた、第三世界にて混血した新勢力をも満足させ、手懐けねば
ならないアクロバットとしての第三の道(ジンテーゼ)をも
構築しなければならなかったろう。



そんな構図として当時の時代人の意識を見立てられまいか。
以上、以下(↓)の書に対する私の見解。



筆者の言う「アメリカの利益」というのは、表現として正しくない。

正確には「たまたまアメリカに籍を置いている支配者層の一部の利益
であろう。だから、それが貫かれても、アメリカ国民はさほど恩恵には
預かれない(むしろ共に被害者)。

煽動されれば単純に踊ってしまうだろうが、その欺瞞が暴かれれば、
直ぐに踊ることを止めるはずだ。第二次大戦後もベトナム後もそうだった、
イラク後のこれからもそうなるだろう。


また、日本人には人種差別が無いと主張したがっているようだが。
そんなはずあるまい。


例えば、ペリー来航時に江戸の庶民が好奇心で集まり、
人と人との交流をした事実が残されていると例示する。

それだって、庶民は、国際情勢を知りうる幕府の重鎮らとは異なり、
鎖国政策の中で日本が世界の全てであって、この世界(日本)を
ひっくり返しうる勢力がこの世に存在するなどとは、微塵も
考えていなかっただろう存在だ(上図の左)。

そんな彼らにあっては、パックス・アメリカーナなマインドで
途上国に赴く欧米人とさして違いの無い傲慢な考えで、異人との
接触に赴いたかもしれない。私はそうであったように思う。
当時の日本にジョン万次郎を育てたホイットフィールドのような
存在があったろうか?




人種主義とは「色分け」だけであろうか?
(反語)
江戸庶民の異人画など、差別意識の現れだろう。常に人種と原色とを
対応させなければそれらは全てまるで人種主義でないかの如き論調である。
すでに著者の敵視する当のマインドに毒されている。

これら論法は、戦前の論客等とさして変わらない「防衛制御
攻撃者との同一視」としての言動にしか私には見えない。



白い人を白人と言って何が差別なのか?
「白人=善人」「黒人=悪人」という意味しか読みとらない奴らが
差別者なんだろう。
そんな意味の限定された言葉として「言葉狩り」してなんになるのか。

白人には、メラニン合成の出来ない遺伝的に劣った人間だという
差別的に劣等の意味を込めて誇称することだってできる。
生焼けのパンという形容もある。
単に「(自分より)白い人」という人種とは無関係の代名詞として
使って何が悪いのか。





本の中盤から、「反米」「アメリカ難し」の感情を迸らせるばかりで、
結びの言葉としての「日本人は西洋の多様性を知らなすぎる」という
文言がなんとも空虚だ。

せっかく、良いテーマと興味深い素材に注目しているのに…。
これでは、本のタイトルとしての「黄色に描かれる西洋人」と
第一章で描かれた欧米での現実を、残りの2〜9章をかけて、
すべてぶち壊しているに等しい。


現在進行形として断言されるそれら過去の事例の列挙は、
「結局この世界は、強い人種主義に支配されている」という
パックス・アメリカーナの現実を強調しすぎている。
日本人の孤立無援感を強調しすぎだ。その態度は、
自ら指弾している戦前の思想家とどこが違おう。

パックス・アメリカーナの片棒を担いでいるのはどっちだ?!

と言いたくなる。こんな形(感情的文言)であえて蒸し返さなければ、
多くの日本人の意識の上でのアメリカのイメージは、ロック文化後の
ソレでしかない
であろうのに。





あとがきで「白人」「黒人」という言葉を日本語から一切追放し、
使うべきでない…と主張している。それは浅はかな言葉狩りであろう。

大切なのは、単語を駆逐することなのではなく、
人の肌の色と善悪・優劣をつけないように教える態度であろう。

いくら言葉を狩っても、相対的な肌の色の違いは厳然としてあり、
単純な言葉の組み合わせによって言語の上にそれは何度でも
現れてくる。

「言葉狩り」によって免疫を失った若者はその時、むしろ
スポンジが水を吸い取るように、瞬く間に、そのような差別意識に
染まってしまうことだろう。そうならないためにも、させないためにも
「免疫」が必要だ。


だから大切なのは、“バランスの良い併用”だ。

「黒(白)人だから素晴らしい」「黒(白)でも悪い」といった表現の
乱れた中にあることこそが好ましい。と私は考える。
それは、「三度目の正直」「二度あることは三度ある」というような
互いに相矛盾する表現が共に併存する“諺”の空間のように。
それが時に忠言となり、また、同時に免疫ともなる。





注記>
民族と人種とを混同したような文章になっていますが、意図的です。
パックス・○○に煽動されるような対象(大衆)は、その混同に
つけ込まれるような形で動員されている…と考えているから。

「人種」によって引き起こされるソレに 賛同するも/反対するも、
自らの生存権を左右すると感じるからこそ、その中で迷妄する。




追記>-=-=-=-=-=-=-=-
アニメの目が大きいのは、別に目の大きいことが美しいと
言っているのではない。

人間関係を構築する中で強い情報源である目を、デフォルメによって
強調しているだけだろう。ペンフィールドのホムンクルスとでも
言うような、脳内の実存に準じているだけであろう。あえて言えば。

それはヒロインの目を特別大きく描いている訳ではなく、ほとんど
みな同じ大きさで描かれていることからもそれは判ろう。
むしろ、ことさら睫毛の際だったキャラは、いけ好かないライバル
として嫌味な存在として描かれることだってある。

また別の観点から言えば、目の物理的大きさ顔の面積比などではなく、
目の微細な個性をも理解し得るほど顔を寄せ合う親密な関係にある
者の目は、遠巻きに漠然と見るだけの他人より、記憶の中で大きく
精緻になっているであろう。それをあえて主観的に描けば、
それら両者の描かれた姿は、実際の目の大きさと逆転することに
なるだろう。そのような表現結果として、ヒロインの目が特別に
大きく描かれる事もあるだろう。
が、それも、物理的に大きな目を良いとする価値観を主張している
訳でもない。




追記2>-=-=-=-=-=-=-=-
弱い日本人が欧米の悪しき帝国主義を模倣したことを著者が
やむを得ないとでも言うように、帝国主義をパックス・○○を
のみ糾弾する。それは違う。悪しき帝国主義を選択しない道だって
あったはずだ。

人間的に弱い白人も、日本人の脅威の前に、黄禍論などという
屁理屈に逃げ込んだ。弱さ故だろう。それは戦中に日本人が
現人神の臣民だと信じたいと縋った弱さと、さほど違いあるまい。
違いは理論・論理ではなく、武力や権威の相対的な数量的違いのみ。


あの時点で日本人が劣等感から脱却し、そして覇権主義的野望を
持つこともなければ、世界の視点からの日本人への恐怖を理解し、
覇権争いで屈服させようと願うのでもなく、“大人の態度”で、
欧米の警戒心を拭う戦略を採ることもできたであろうに。

弱者の自覚のまま、「白人」と呼ばれる側に自分もありたいと
願っているようでは情けない。そんな立場から、そもそも
「「白人」って言葉さえなければ良かったんだ〜!」なんて
言ってみても本末転倒だ。

そんな態度で言葉を狩っても、別の言葉によって
何も変わらない「同じ現状」が、新たに形容されるだけだ。





追記3>-=-=-=-=-=-=-
やっぱり、“日本人は黄色い”ですよ。

デジカメの顔認識機能や、プリンターの色補正機能等では、
現実に、色相を黄色から赤へと偏重させているともいう。

それが「綺麗に見えるから」という。

そんなに白人になりたいのか?! と、その精神を卑しく
私には思える。

黄色に塗られる西欧人の延長線上に、人種とは別の国際的な
共同体意識が今後構築されてゆくのかも知れないのに…。

白に拘る卑屈な日本人は、白人種全能主義の時代に、
黄色の軍勢に配され「黄禍論」と標的にされたように、
擦れ違うように再び、日本は世界の体勢の外に弾き出され、
再び世界の元凶の如く標的にされやしないか…と怖れる。

次にどのようなカテゴライズが待っているかなど未だ、
全く見えやしないのではあるが…。

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愚か者は、金を持って死んでいくために、貧乏で暮らす

El tonto vive mal porque muere con el dinero.(エル トント ビベ マル ポルケ ムエレ コン エル ディネロ)



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