大道寺知世に見る時代の視点@カードキャプターさくら

  • 2007/07/27(金) 20:55:19

世のホリエモンフィーバーの中で育った子どもには
おそらく理解の範疇を越えていると思われるが、
1980〜90年代ってのは、金持ちであることがそのまま罪だった。
…'50年前後の戦前(有力者)否定と、それを受けた'70年前後の
政治汚職の確信…等々の系譜から混合され醸成されたものとして
その系譜は辿れるだろうが…ともかく。
人格を吟味されず悪人扱いだった。その上に超人的な規律・規範が
求められてもいた。



大道寺知世@カードキャプターさくら
このキャラクターはそのような時勢に対する揶揄が伴っている
…と、当時から私は、そう理解している。

故に、アイデンティティが崩壊し、自己実現の欲求が麻痺した存在
である…と。このような年齢でそのように達観する者も、現に居る
のではないか…とも思ったものだ。こんなに幼いのに…(泣)…と。

だから、彼女が「さくらちゃんv」と愛着を示す度に、どこか哀しさを
かき立てられる。自らは自己実現を諦めたから、その代価行為として
別の誰かを応援せずには居られない…。

だからその視線は、
自分の限界を知り尽くし、夢を諦め、捨ててしまった女性が、
自らの子どもに夢を託して執着する…母親の…姿と、重なる。





あの世界は、客観的にみれば、絶望の世界が描かれている。

その絶望の世界を、見方を、視点を、変えることによって、
愛と幸せに満ちた世界であると認識できる…という実践が
描かれている。主題歌でもそのように歌われている。

同性愛・近親愛から、教師と生徒の禁断の愛…。
さくらと知世…男女入れ替えての桃矢と雪兎。
その両親の禁断の愛と、その比較級…級友の利佳ちゃんと寺田先生。
母を想う従姉妹の存在が、その子どもとして自らを慕う友達として
自らに再び繋がる。
対比され要素を変え、重複的にキャスティングされている。

叶わない夢、あきらめ、その心を捨てることを強要されるであろう
存在の隠喩。それらはあの「最後の審判」とも呼応し、連動している。




この作品で、カードは「世界の構成要素」の寓意であるだろうから、
それにまつわる出来事は「全て主人公の思い込み」としても解釈
できるものであろう。
故に、この世界での「魔法」は、「現実へは作用できないもの」
「してはならないもの」として描かれている。それは逆に言うと、
非現実へと「現実を歪めてしまう個人の側の認識」を、「現実的に
思い直すもの」「現実へ引き戻す力」として「魔法」が使われている。
そう。「魔法」とは「非現実への逃避の道具」ではなく、「簡単に
非現実に誘われてしまう弱い未熟な個人の世界認知」から、
“現実への回帰”を促す「力」として「魔法」が設定されているのだ。

いわゆる「魔法はズル」とされる旧来の規範とは明らかに異なる。


この世界は絶望に満ちている
その絶望を希望に変える希望として「無垢な主人公」が配置されている。

無垢と言っても、物語表層で描かれている顕在意識がそうなのであって、
「魔法」によって間接的に描かれている潜在意識の側は、無垢とは
言えないものなのだろうが。





例えば、
兄は優秀だが現実より虚構(雪兎)を愛する者として結論されている。
あれは同性愛と言うよりもオタクだろう。

あの頃からオタクは「現実で女性に相手にされない者の現実逃避」
だけではなく、「優秀であるが故に、現実の限界を見極め、より
創造的な世界である虚構を選んだのだ」とも言われ始めたころだ。
そのような存在を象徴しているのだろう。

ここで、クロウの創りし存在としての「ユエ(ゆきと)」とは、
主人公の理想の化身であり、世の全ての子どもが「初恋は叶わない」
と言われるような意味において「恋い焦がれる存在」であり、現実とは
乖離した存在だ。それは現実に居る特定の誰か個人が素体となっていても。

そのような存在との間接的な接点として「兄弟の知り合い」という
経路が選ばれている。完全に未知の存在と突然出逢うようないわゆる
「白馬の王子的な一目惚れ」、合同コンパやお見合いパーティのような
一足飛びではない関係性の中にそれがあるのだと、出会いの可能性を、
一定程度リアリティの担保された期待なのだ としている。


兄は、クライマックス近辺で、自らの守護者としてのこれまでが
本人に明らかにされる形で描かれている。が、主人公の…それを模倣する
読者の人生において、「意地悪なお兄ちゃん」が現実のソレであって、
それが全てであろう。
あの瞬間は、そのような現実の「お兄ちゃん」を、理想的な存在として、
「自分をこれまでずっと守り続けてくれていた存在」として「思い込む」
そうだと「信じる」ことを可能とした瞬間…と読むべきであろう。

そう思いこむためのレトリックとして、今後その“理想な兄”が、
理想通りに自分を守れなくても、それを可能とする「能力を失った」
というエピソードをその瞬間に「創造」したのだ。過去に遡って
辻褄を合わせることによって。
その辻褄が複線としてこれまでの作中に配置されているのだ
…と結果論的にこれを読むべきだ。


そして、その兄が能力を失う理由として描かれているものが、
「理想の存在(ユエ)の消滅を回避する為」…としているのも重要だ。

その心の中の「理想的存在」を、子どもの愚かしい、幼稚な
「実らない初恋」だと自覚したからといって、簡単に「恥」として
人生の汚点として、「卒業」した玩具をゴミとして捨ててしまう
ように、脳内から消し去って(忘れ去って)しまって良いのか?!
…と問うている。
自分を形成した大切な経験として、それを未来への糧として、
内在化したその人格は、現実の特定個人とは全く別の勘違いの塊
であったとしても、それはそれで自らが作り出した別人格の存在
として、その特定個人(素体)から切り離し、一人格として認める。
自分を理想へと導き、成長を引き上げてくれる存在として、
今後とも大切に付き合ってゆくものなのだ…と、納得した瞬間とも
不可分に重ねている…ということだ。

そのような存在を大切で失いたくない「存在」だ言わせることによって
結果が全てではない」「過程こそが“力”の源泉である」ような現実を
描いている。



「見えない友達」として、ケロやユエなる存在と、今後とも対話しながら
その後の人生を歩んでゆくのだろう。

大人になったからといって、非現実的な空想は全て捨て去るべきだろうか?!

それはそれで不利益である。現実を無視した妄想への執着は有害であるが、
実現可能性が100%ではないからといって憧れの対象を次々に捨てていっては、
その先に成長は無い。

どんなに科学的見地を習得しても、個人の未来はいつも不確定だ。

不足の事態ということには必ず遭遇する。複雑な人間の作る社会だから。
そのときに絶望で途方に暮れることにならないための心構えの役割を、
脳内のそのような領域がカバーしてくれる事になるだろう。それは
幾つになっても。

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