自分で考えるということは

  • 2006/07/04(火) 23:23:37

「自分で考える」ということを
一人で正解に辿り着ける」事だと錯覚していないだろうか?



しかし、
「自分で考える」ということは、
有限な個人が有限な情報で一定期間内に限定的な結論を
出さざるを得ない…ということだ。万人の出す回答が
おのおの異なっていることの方が、むしろアタリマエだ。

真実はいつも一つ」というアタリマエが、
フクザツカイキなこの世の中の、チッポケな個人とう有限さを
アタリマエでなくさせてしまう。
結果論として個別の主張の有効性・真実性を問えたとしても、
それは「自分で考える」行為の有無とは何ら関係ない。
真実か否か」は「自分で考える」という前提から既決される
指標ではない。



「自分で考える力を持つ」…とういことは、
社会としては「教え・導く手間が省ける」ことだ
…と思ったら大間違いだ。

治安コストはむしろ増すのが必然だ。

「常識」は薄れ、他人との意志の疎通は、むしろ困難になる。




だからといって「自分で考える」ことは否定されるべきだ
…と、言うつもりはない。

意志の疎通が困難になるという事は、スキルが必要になる
と言うことでもある。逆に言えば、そのような社会は、
他者を理解し慈しむ必要性が強く求められる社会となること
でもある。

国際化の要請も適う。日本人の英語能力のお粗末さも、
英語教育の実りの無さも、同じところに起因している。
必要性がない能力は身に付かないとうことに尽きる。

また、多様な価値観の存在する社会とは、悪く言えば、
洞窟に向かうときの「カナリア」の役割を「誰か」に
担わせること でもある。
言い換えれば、一つの災厄で全滅しないで済む…と
いうこと。


その構造と価値を理解すれば、脱落者・失敗者・被害者を、
簡単に見下したり蔑視したりすることなどできなくなるはずだ。
そのような存在を総て消し去ってしまう事が正義であるかの如くに
言われるような事もなくなる。私はそう信じる。

そのような存在のある事を、感謝し、有り難く思い、
その者への支援を当然だと思えるようにもなるはずだ。…と。
自分も担っている身代わりの役割を、そこに見ることになるのだから。


「自分で考える」ことを求める社会とは、そのようなものでしょう。

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