一人で考えない日本人?

  • 2006/07/03(月) 01:52:47

ご臨終メディア―質問しないマスコミと一人で考えない日本人 (集英社新書)
森 達也 森巣 博
集英社 (2005/10)
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日本人は思考停止なのではなく、むしろ逆なのでは?

一人でしか考えない

それも、一人で考えている事を、一切他人に家族にも表明しない。
よほどの確信や自信や、社会的権限でも無い限り。

非言語領域に多くの核心部分を含んだまま、生きているのだ。



だから、

例えば、その都度辞書を引けばいいような些末なことまで、
暗記しなければならないような形で、
聖書を暗記しつつも、決して口に出してはならない
…とでもしたかのように、

その負荷が、思考を不自由にしている
瞬間的な思考の瞬発力を拘束している。


そうとでも見立てないと、この国の国民の基礎学力と
実体との乖離を説明できない。

そして、その負荷部分を不問にすることを、思想信条の自由
といったものとして、踏み込むべきでないもの
と前提されているようだ。





私のマジカルナンバーセブンでその後を継ぐと、そのような負荷の
五つほどを占めてしまっており、自分の質問と相手の回答という
二つしか入らない状況になってしまっている。
だから、畳みかけるような質問ができない。

その5つとは、例えば昨今の自分らしさや個性のような、
自己規定していなければすぐに失してしまうような
極々ツマラナイものによって占められているのだろう。

本来個性とは、それら自己規定を一切廃しても残るもの、
どうしても廃せないものを指して呼んでいたのだろうが、
一般にそうは理解されてない。
画一管理教育の上面を取り繕っただけの歪んで形式化した
「個性教育」の弊害だろう。教育の失敗だと言い切れよう。

そのように歪んで個性が大切だと言われれば言われるほど、
日常生活から無駄な負荷によって思考のポケットが占められて
しまう。

いや、残業や夜遊びによって溜まった疲労や、セロトニン欠乏
等々によって、思考のポケットそのものが七つ未満になってしまって
居るのではなかろうか。

いや、国会の質疑応答を聞いていて、半数以上の野党議員が、
想定外の答弁に瞬間的に反応できていない。青年若者に限った
状況でもなく、また文字通りの「思考停止」に因るのでもない
のだろう。



見ていて感じるのはおそらく、準備した質問と追求で限界まで
頭が占められていて、あまりに無茶すぎて想定するまでもない
愚かしい答弁に対応できない…といった感じだ。
バカすぎてその場で即興で対応していても、良識的な人間ならば
容易に潰せるような暴論であっても、想定外の事態に対応できない。
一晩置いて熟考を要した結果でないと、数多の組み合わせと、
それぞれに宿る微塵の「可能性」に脅えてしまう。
99.99999999%の自信があっても、残りの0.0000000001%が怖い
…といった感じで。

純粋な論理性への過度の信頼と、人間の思考の動物的限界に、
あまりに無自覚である…、私はそう診断したい。…★1



人間の創造力は無限大だ

例えばそういった言説のような、誤った過剰な理想論に惑わされている。

有限な個人の有限な脳処理で有限な時間内でできることは限られている。
衒学的に賢くない者ほど、思考は自由だ。人間的なバランスが保たれている。

そのような討論で共感を得るには、賢くなくて良い。戦略が優れていなくとも
良い。ただ、お茶の間の視聴者と同レベルの人間を据えていればよい。
失言しても、その場で醜態を曝さなければ、後からいくらでも真意を補える。
官僚的な知識から重厚な真意があるのだと箔付けすることだって可能。
権力者は様々な角度からフォローされるが、逆に、質問者は舞台から
降りたら完全に無視だ。格差拡大の構造がここにも。

メディアを上手く使っただとか、天才だという評価は当たらない。
ただ、同レベルであればいい。お笑い芸人が視聴率取るのと同じ構図。

そのような演出構造に、彼をキャスティングした者が有能ということ
であろう。彼の暴言をフォローした後援集団と共に。

その中にでは、郵政民営化を掲げた彼の登場は、マスメディアにとっても
利害一致があったのではなかろうか…。それまでの監督官庁に報復する
都合の良いチャンスだと考えたのだと。あの小泉の「郵政憎し」は、
民放にとって目の上のたんこぶだった郵政憎しと、何か共通する
イメージや特定個人が浮かんでいたのでは? …★2

だから、郵政関連法案の通過以前と以後とで政権に対する扱いが、
露骨に違っていることにも辻褄が合う。郵政民営化に対する本気度を
確信したからこそ、それまで政権御用機関にも成り下がったのだろう。
総選挙での大勝の揺り戻しだとか、体の良い言い訳が、そのあたりを
見栄難くしているのでは。



…ともかく。

それら核心部分を直接口に出したり文字にしたりせずとも、
意思伝達できるスキルが育てられている。ある者が見ると、
単なる「思考停止」や「文部省の企てた自分で考えさせない
戦後民主主義教育」といった評価にしかならないとても。

いわゆる「腹芸」だ。核心の見えない…空気の読めない…者には、
フリーメイソンに目を付けられた邪魔者のように、敵意の存在に
気づくことすらなく潰される。ノイローゼのような被害者意識を
植え付けられる。

世論を操作する実体は確実に居て、その力に無自覚でもなく
相当に意図的に計算して行われているのだ…と私は感じている。
それは決して権力の頂点には座らないだろう。証拠も残らない。

時代の空気とでもいう背景的な価値観の輪廻は厳然と存在し、
その絶対的な波は個人の手腕ではどうにもならない。だが、
それを作ることはできなくとも、その流れを読み、便乗して、
印象のすり替えをして利益誘導を行う事は不可能ではない。

私はそれをサーファーに準えて、エアライダーと呼ぶことにしている。

自然の潮流…惑星の引力に起因する強大な海の波。それは個人の力では
どうにもならないとしても、その波に乗り、自在に振る舞えるように。
そして、メディアの力や公権力にも、海の波そのものを操作する事は
できない。しかし、波消しブロックや堤防を設置する程度の能力は
有していると言えよう。防災のみならず被害を特定勢力に誘導する
ような事さえも、大雨の堤防を決壊させるようなものも含めて。


想像力が無くなっている」その指摘に共感するし、現実に
多くの日本人が無批判な状態にさせられているのであろう。ただ、
考える力を奪おうと計った結果だ…とまでは考えない。
ただ、結果的に腹芸の結果として本来責任を負うべき者を隠す
体の良い隠れ蓑になっている。教育のゆとりが叫ばれ出した
頃から、意図的に扱いやすい愚民化計画に切り替わった。
というのが、私の実感です。






-=-=-=-=-=-=-=- 注記
★1>
言ってしまえば、能力を肉体の限界まで高めているのであろうが、
そこに一切の「あそび」を廃してしまっているから、不足の事態に
対応できない。

ある意味でJRの脱線事故も同じ。「あそび」が一切無くなるまで
限界まで採算性を高めているつもりなのだろうが、有事に対応する
為のリスク評価が完全に狂ってしまっている。危機管理の逆行。
「そんなことは起こらない」と決めてしまえば、採算性を邪魔する
無駄そのものになってしまう。だから対応を取らない。しかし、
人はミスを犯し、自然は時に猛威を振るう。
有事を想定せず限界まで切りつめられて作られたプログラムは
一つの小さなミスでさえも、ドミノ式に大規模な統合失調を起こす。

それに無自覚である事が、今の…世紀末の日本の病状の実体だろう。
一人で考えられない」という評価はおそらく正確でない。
だからこそ、「自分だけは考えていて、他人はみんなバカだ」と
誰もが考えている…というような状況にもなるのだろう。
平時の思考を有事にもできると考えている。有事に平時のような
深い熟考ができなくなる事に無自覚である。「知っている」事も
手癖として「身につけて」いなければ対応できず、その結果、
「バカ」みたいな醜態を本人は不本意でも曝してしまう。
想像力でなく当事者意識の無さ。他人の立場で「考える」力は
あっても、客観視してしまい他人のその立場での主観視ができない。

★2>
私がこのように考えるのは弱いから。微かな希望を込めている。
指摘の通りであれば、これ以上の権力への阿りは終わるはずだ。
そう思えるから、その可能性に縋る思いで願望しているのです。

ただ、その共謀によって社会の被った被害の大きさに対し、その
罪悪感に自覚的であればあるほど、隠匿体質を強化してしまうかも
しれない。戦後の朝日新聞が顕著だったように、自らの罪を直視
できないが故に、自ら被害者的に正当化し、強者に阿る態度を
なお固化してしまうかもしれない。

それが「メディアを使うのが上手い」等という無責任極まり無い
評価であったりなんだったりに表れている。

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