女性作家の有利な時代だった?

  • 2010/08/26(木) 20:46:17


1995年〜2010年の間は、
作家等クリエイティブな現場で、
女性が有利な時代だった
と思う。

有利と言っても優遇されたという意味ではない。



この期間の前半は、
未だ、女性は結婚家庭に入るという「常識」が名残として残っている頃でもあり、
ダメなら家庭に入ればいいや とか、旦那の安定した基盤の元で、
生活の手段すら断たれる不安など無く、自分の面白いと思うコトにだけ
打ち込めていられたように考えられる。


その点、男性の側は、生活があり家庭があるとなると、また、男性は天職
…生涯一つの職が当たり前の常識
…の元で、弱みというか、守るべきものがあり、
例えば編集側と対立した時、冒険より安定志向を求めたり、いわゆる「売れ線」を
強要された時に、なかなか逆らうことができなかったのではないかと思われる。


そういった状況の中で、そんなものには捕らわれず、時代にあった作品を
臆することなく書き続けてきた者が、評価される形で、昨今のアニメ原作の漫画や
ライトノベルに女性作家が多い…という結果になっているのではなかろうか
…と考えてみた。



もちろん、家計においても消費動向にしても、女性が大勢を占めているのだから、
女性の趣向が需要が高いという側面も、それ以上に大きいのではあろうけれども。





思い返してみれば、1970〜1980年代のテレビ等のメディアの世界
で、
若手の挑戦的な番組・作品作りが花開いたのは、…それ以外の工業製品の
新製品・流行関連にしてもだけど…、それらチャレンジ精神を支えていたのは、
地方からの出稼ぎ組による、「ダメなら家業を継げばいい」という逃げ道が
残されていた者の無茶な挑戦に突き上げられていたから
だったのではなかろうか。

それらがあったからこそ、
保守的な事なかれ主義に陥ることも無く、
業界全体が社会全体が、ある意味捨て身の挑戦ができていたのではなかろうか。
そういった意味で、帰る場所である田舎という存在が、社会のセーフティネット
となっていたのだ。
言うなれば、やはり、セーフティネットが存在していた
からこそ、発展することができた。
それが実際に利用されたかどうかは別にして、確かに存在することが大事なのだ。

しかし、現在、農家の跡継ぎ不足に代表されるように、次ぐべき家業それ自体が
衰退・衰滅してしまっている。セーフティネットとしてのリソースが不足している。
これが、今の社会の活力の低下の遠因としてじわりと影響しているのであろう。


中小、家族経営企業の減少と、チャレンジ精神の低減&保守主義化は、
相関しているのではないかと思われる。



失われてしまった隠れセーフティネットを今更アテにはできない。
保守主義者がいくら地域コミュニティの復活を叫ぼうが、
失われてしまったものを取り戻すのには、時間がかかる。
壊す時間よりも、ずっと長い時間が。魔法のようにチャラにする
ことはできない。決して。


もはや、別の形でそれを、意識的に準備するしかない。
もしくは見捨てるか…だ。これは二者択一の問題。


そして、
女性にもバブル時代の男性のような「帰ることのできる場所」は、もう無い。
共働きが当たり前の時代に…というか、社会環境に…なってしまった。

「専業主婦になればいいから、ふふふ」

なんて逃げ道は、もう無い。全く無いわけでもないけど。




今後のメディア産業は、現行の旧態依然な組織形態からだけでなく、
コンテンツの質という意味でも、斜陽を迎えることになるかも知れない。


存在意義と集団

  • 2010/08/04(水) 12:36:42


どのような集団も、その存在意義がある。


それがあるからこそ人が集まり、
人が集まったから、集団になるのだから。



しかし、その掲げた存在意義によって
不可避に抱える矛盾も存在する。



存在意義が存在の存続を揺るがすのだ。





例えば、公共事業。
国土の発展と国益を目指して始められたその存在も、
公共事業が生きる術となった存在からすれば、
その目的の完遂は生きる手段の喪失でもあり、
目的の完遂を阻む動きが生じてくる。

それが、事業の拡大であったり、機能の強化であったりして。



例えば宗教団体。
迷える大衆の葛藤を解決し救うために組織されたはずの
教団も、その対価としての側面もある布施が断たれれば、
教団の存続そのものが危ぶまれるが故に、信者との関係を
結び続けるために、迷いからの救済をむしろ遠ざける
ことが
その存続に適うという矛盾が生じてくる。





それが無い集団も実はある。

つまり、現状維持そのものを目的とする集団。

それこそが、保守集団。

集団として手段と目的が逆さまであるのだから、
それの掲げる理念が、なんでもアリになるのは、
ある意味当然でもある。

「勉強になった」とすぐ言う人

  • 2010/08/03(火) 12:02:38


単にムカツク事があっただけなのに、
それを「勉強になったと」言い換えている人が居る。

何を「学んだ」と言うのだろう。


何も学んでいないのに、何も自分を成長させていないのに、
単に綺麗か言葉で言い換えている大人語だとでも思っている
みたいだ。


もちろん、一般的に相手を不愉快にさせる態度や、仕草など
自分を改める切欠になったのならば、それは勉強になった
と十分言っていい体験だろう。



しかし、具体的なあの人の逆鱗に触れることだとか、特別な
トラウマのある人にとってタブーであるワードを知ったとか、
そういった「気づき」を指して「勉強になった」と言うのは
どうだろうと思う。

閉じた社会なら、そうとう役立つけどね。でも、汎用性はない。



さらに、
そういった、役立つ気づきも何も無く、
同じ過ちを繰り返さない算段を、何も立てていやしないのに、
それでもその不愉快な体験を「勉強になった」と言っている
っぽい人が居る。

試練を乗り越えたら成長がある。
それを逆算して、
試練があった分だけ成長しているはずだ。と言うのは、
何か話が違うのではないでしょうか?

タダのマゾとあまり変わらない状態に落ち込みそうだ。



「勉強になった」


無理にそういう言葉を持ち出す必要は無いんじゃないかな。
と思う。ボクはね。


嫌な体験を無価値だと思いたくないからなんだろうな。
何か自分にとって価値のある体験だったと考えないと、
タダ損をしただけに思えて悔しいんだろうな。

それをチャラにする「魔法のワード」なんだろうな。




でも、魔法は魔法。

それだけでは、現実を変える力にはならない。