主観と客観と幸福度調査

  • 2010/05/09(日) 22:13:38

日本人は「不幸」ではなく「ワガママ」と言うべきでしょう。
 
幸福度調査に対する日本の扱いについて…↓

2010-05-05 「勝間和代vsひろゆき」討論はとても大切なことを世に問うている
幸福度と国際競争力やGDPとは必ずしもリンクしないように見える。
<中略>
『経済成長=幸福』という仮説がそれほど自明でも一般的でもないことは指摘しておきたい。

 
フツーのラインが諸外国と異なることを加味すれば、統計データーを正しく読み取ればこそ、その判断は、むしろひろゆき氏の主張に似たものになるのではないでしょうか。
 
分かり易い別の例えで語りなおせば…、
同じ偏差値60でも、進学校に居れば、落ち溢れ扱い だけど、
底辺校に居れば、クラス一の秀才扱い。

偏差値45の底辺校の一人と、偏差値70のエリート校の落ち溢れを比べて比較すれば、あきらかに前者が前途多難で後者が前途有望であると言えるだるけれど、主観的には前者は自らを幸福と言い、後者は自らを不幸だと呼ぶであろうことは容易に想像できる。
カツマの持ち出した客観データというのは、そもそもにおいて「主観的な判断を集めた“客観的”データ」であって、その中身は主観そのもの。その「客観性」をきちんと扱うには慎重な補正が欠かせない。

 
また別の例えでは…、幼少時の栄養状態が悪かったオッサン世代では身長170cmもあれば羨ましいレベルだが、逆に180cmを越えるモデルに溢れた今時の若者は、170cmでもコンプレックスを抱えているかも知れない。前者が後者をワガママだゼイタクだ…と論詰しても意味がない。その者が高身長を誇れないのは環境問題として自明だからだ。

 
 
 
 
 
ただし、ここまでの議論は、もはや古くさい過去の話。
 
すでに、日本の中で、貧困と言える状況が出てきているにも関わらず、その貧困の中で、底辺校の偏差値40的な状況で幸せを主張する者も出始めているので、主観的な幸福度を測る調査が、社会問題を隠匿する材料に使われかねない状況になっている。
極端な話、情報弱者を意図的に作り、国民を個別の村に隔離するようなことを行っても、国民の幸福度を上げることは実際可能
であろう。しかし、そのような事で幸福度を上げることが道徳的に問題があるとともに、国全体の生産力という観点からも非効率化を加速させることにも成りかねない。
 
 
 
その意味では、浮き世ズレしているのはカツマだけでではなく、
ひろゆき氏も同じ。「遊んで暮らしていきたいけど、食うために
仕事をする」と言うが、遊んでいて不足な分だけ仕事をする
なんてやっていられる社会では、もはやなくなっている。
金がなくなってから仕事に就こうにも、もはやそんな者に仕事はない。
 
求人倍率なんて数字も幸福度と同じくらいアテにならない。
役所と共謀して雇うつもりの無い求人を出させて水増ししている。
失業率なんてのも有益な数値ではない。それは離職者の総数を
表しているわけではないから、本当の意味での失業率ではない。


国として(政府ではなく)日本は、国民を広く食わせてゆくだけの富は十分に持ち合わせているとは思われる。しかし、バブル崩壊後、その贅沢を忘れられない資産家がその生活水準を維持するために、底辺からの搾取でそれをまかなっている。小泉改革はその本音を隠すべきものから公言してはばからないものにした。そして、生活困窮者に税金を使うことを惜しむようになった。自己責任論で補強されたそれは、富の再分配は総じて無駄遣いのバラマキだという言説として根強く張り巡らされた。

 
カツマひろゆき論争がひろゆき圧勝で盛り上がっている。
その理由も分かる。90年代的なカツマの言説が、2000年代的な
ひろゆきの発言を前に、とても古くさく、過去のものとして
糾弾したい気持ち…負け組の鬱憤も含め、それが正論である面もよく
分かる。当時私も同じように考えていた者の一人だから。

しかし、すでに状況は次の段階に変わっている。
カツマの論理やその根拠となっている正論が役立たずであり、
その空論さをひろゆきの主張が突いているとしても、
ひろゆき氏をもちあげていたら、痛い目を見るのは多くの庶民、
大衆であろう。

続きを読む