日本語の秘めた力ならば可能であろうこと

  • 2010/05/04(火) 23:11:47

脱線したまま終わってる…。

どう結論づけているのか興味深く読ませていただいたが、
答えのようなものを提示する前にそのための前提のような
長々とした解説の途中から、その前提を個人的な感情を
唐突に持ってきて放り投げている。これにはかなりびっくりした。

↓その記事

「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら
 

彼の言うような「政治」…殲滅戦を行わなくても、
利害対立を乗り越える術はある。

そのために過去記事を持ち出してみた。
バカの壁のその後
おかしな奴

上記記事では図示した模式図の解説が足りないと思ったので
ここで改めて書き下す。
常識を異にする関係との共和

異なる常識(信仰)を持つ者同士で利害対立が生じるのは、
その常識(信仰)を持つからではない。本質的には。
その常識(信仰)によって導き出される行動様式によってである。

常識A→理念・主張A→行動様式A
常識B→理念・主張B→行動様式B

常識は言語化されていないものをも含むので、あえて
ここでは常識と理念・主張とを分けている。

常識…当たり前と思っていること…のほとんどは言語化され
ていない感覚的なものである。
時に、論理的に考えれば、理念・主張とは反することを、
信仰として(保守として)守ろうとすることもよくあること。



主体をAとして話を進めるが、
この行動様式Aと行動様式Bが利害対立することによって、
人は理念・主張Bの存在を知ることになる。
そして、この理念・主張Bの存在によって、行動様式Bが
導かれているその関係を問題だと考えて、これを否定しようと
画策することになる。当然、常識を同じくする者同士であれば、
自分が正しいと真実・真理だと考えているものを前提として、
そこから論理的に無謬な結論として、自らの行動様式Aが正しく、
利害対立する行動様式Bは間違っていると結論し理解させる。
信仰を同じくする者同士であれば、それで終わる。これで十分。


しかし、今回の相手は異なる常識Bを持つ(推論される)対象である。
その者に、いくら自分が正しいと考えることを繰り返しても、
自分が正しいと考えていることを前提にして結論を導いて見せても、
相手にとっては何の証明にもなっていない。空論を元に空論を重ねただけだ
としか受け取られない。

Bにとっては、理念・主張A→行動様式Aがそれに当たり、
Aにとっては、理念・主張B→行動様式Bがそれに当たる。

このままでは、殲滅戦を繰り返すしかない(下図の赤丸)。
バカの壁のその後

自らの原理主義にとらわれていてはここで終わる。
みずからの理念・主張に拘泥し、暴力的手段で殲滅戦に打って出るか、
分かり合えやしないことを分かり合って棲み分けと称し無視を決め込む。
その二者択一しかあり得ないとの結論がなされてしまう。


しかし、自分の常識とは異なる常識Bの存在を規定すれば、
解決(利害対立の解消)の道が開けてくる。

理念・主張Bを否定せず、論わず、それを揺るがすような
アンチテーゼとして提言を行う。葛藤状態に置かれたBは、
常識Bと理念・主張Bとの間に整合性を持たせるために、
何らかの答えを出さなければ、動揺を抑えられなくなる。
時に理念・主張をBダッシュに修正するか、行動様式Bを
提言を含めても矛盾がない行動様式Cを選ばざるを得なくなる。

いや、この説明は正確には正しくない。
Aにとって許容できる行動様式CへBを誘導するために、
あたかも行動様式Bが、常識Bを揺るがすものであるかのように
見えるようなものとして「提言」を行うのである。
お節介のように、同情のように、相手の理念・主張Bを尊重する
が故に導き出された疑問であるかのように偽って。
いや、偽る必要はない。心からそう思って言うのであっても
かまわない。共生や同化を望むのならば、必然的に導かれるものも、
おそらく、そのようなものとなろう。


そのような対話と観察…時に相手に従ってみる体験…によって、
正確に相手を「知る」ことによって、水掛け論の応酬にもならず、
「政治(殲滅戦)」をすることも、避けられない道ではなくなる。



当然、ここで導き出す「提言」は、常識Bを想定し、
理念・主張Bを元にして導き出されるものであって、
それだけでよい。自らの常識Aや自らの理念・主張Aには
必ずしも適っている必要は無い。そこには論理矛盾が生じても
良い。

同じ事はAとBを置き換えても言えることである。
自らの常識が守られているならば、行動様式の変更を
余儀なくされたとしても、それを屈辱だとは感じない。
自発的な当たり前のことだと心底思いながら行動する
のだから。

そしてそれら行動様式に共通性が増えてくれば、
環境が人格を作るように、自ずとそれぞれの常識も
似たものへと変わってゆくだろう。互いに無自覚の内に。

これは、互いに「書かれた聖書」、「変えられない原典」を
持っていても構わない。その「解釈」は変えられるのだから。






「人を殺してはいけない」も「人を殺してもいい」も、
顕在化している上記の理念・主張に含まれるものである。

その背後には(意識的なものも含め)無意識の常識がある。

「人を殺してはいけない」ということを証明したければ、
「人を殺してもいい」と考えている人の、その人が信じている
常識Bを射程に入れ、それ(主張)を当人に否定させるための「提言」を
投げかけることによって、必然的なものとして「人を殺してもいい」
という理念・主張を下ろさせるということが可能である(論理的には)。

「どう言えばよいか」をここでは例示することはできない。
それは、おのおの抱えている「常識」が異なるからだ。
万人に共通する答えは無い。

しかし、無いからといって、それが絶対に「証明」できないわけではない。

私はそう信じている(可能性の話の上で/容易なことだとも思わないが)。





ちなみに下図の解説も少ししておく。
上記の解説は、下図の中でのピンクの四角の中だけのことである。
日本にはこちらが多いのではあるが、青い四角のような道もある。

問題を隠匿すべきか、開示すべきか、どちらが正しいかがしばし
論争になるが…ディベートの国アメリカに習えばピンクに軍配が
上がるのかも知れないが、どちらが正しいとも言えないというのが
私の立場。

公開しろと叫ぶ者が否定したいのは、本質的に隠匿することではない。
図の紫丸のような無言の強制、その服従圧力に抗う術が、対話を手段に
した場合には、ほとんど無い。ということであろう。

逆に、隠匿が正しい(空気読め)という者の立場を代弁すれば、
論理のみに頼れば、図の赤丸のような殲滅戦にならざるを得ない。
その不毛さを問題にしているのであろう。

それらどちらも正しく、表面化することによって、妥協を導き共生する
こともできるし、それも平和に向かう一つの道であることは間違いない。
と同時に、あえて隠匿・無視することによって、外形的な類似を
取り繕うことによって、あたかも同化しているかのように偽装する
ことができる…言い方が悪かったので言い直すと…察しと思いやり
によって、表面的な対立を避けることができる。問題解決を、それを
認知している者のみで行うことによって、無知・無自覚な者にまで、
むやみに飛び火させて炎上させてしまうことも、ある程度、
事前に抑止できるわけだ。

これら構図に互いが自覚できていれば、不毛な対立で、ただ互いに消耗し続ける
ことも無くなるはずだ。

もちろんこの構図をあえて利用し、問題をすり替えようとする者が
居ないわけでもないことが、この社会をめんどくさいくさせている
のだけれども…。そのような者が少数派であることを信じれば、
良心的な者の潰し合いを避けることが、ある程度できるのであろう
…と、期待している。