熱血教師衰退の背景

  • 2009/10/28(水) 17:43:15

熱血教師型の教育の“底上げ対策”が、
すっかり廃れてしまったのは、

それが、依怙贔屓や不平等だと言われるような
批判に説得力があったからであろう。



さらに言えば、いわゆる「不良」のように、
反社会的行為に及ぶ者ばかりに手を重くかけ
彼らを社会的に成功させてきた。その影で、
真面目で温和しい者達が、ほったらかしにされ、
放置されてきた。



そのような「底上げ」は、言うなれば、
末端を上位に“割り込み”させるものである。


中間層が不満に思うのも当然である。
また、偶然にしろ、好悪の結果にしろ、教師の
目に止まらなかった者が、選ばれなかったことに
妬みを覚えるのも当然であろう。


熱血教師型の底上げ対策が注目されていた時代は、
そのような対応に対する都合の良い勘違いが
解けていなかったからであろう。

まだ、そのような底上げが有ろうが無かろうが、
上位が自らの地位が脅かされる心配も抱く程でもなく、

中間層にあっては、そのような救済の対象に自分も
含まれているのではないか…という期待を、未だ
持ち得ていた頃のことであろう。



あるべき底上げとは、努力の差により、多少の
評価の上下が起こっていても、全体としての
集団自体においても、順調に実力が上昇する
ようなもの。



そのような形態が維持されてる前提にあって
問題となるのが、単なる相対評価では見えない
絶対評価による実力の上昇。努力が無駄でないと
思えるだけの、生徒への自覚の誘発の仕組みである。



それが無かったから、努力しても競争に負けてしまう
者が、その努力を常に同じ順位であることを理由に、
無駄と考えてしまうことになる。

「努力してもしなくても、どうせビリだ」というような、
自意識の固定化。それによって、努力し成長を放棄して
しまう層が、努力を続ける層との間に、二極分化が
進んでしまう。しかし、その分裂がどんなに深刻化しても、
クラスなどの小さな集団内での「相対評価」だけでは、
そのような感覚は、なかなか自覚化されてはゆかない。




故に、それを解消させるためには、
全国模試のようなものではなく、


例えば、上級生や下級生との交流を活発に行うこと。

クラスでビリでも、下級生(の普通)よりは、断然優秀
…知らないことを知っていて、体力も上である…ことが、
自尊心を涵養し、下級生には負けられないという、
プライドを脅かす形での最低限の努力までもを怠る
ことの無いように歯止めをかけることにもなろう。

注意しなければならないのは、そのような交流は、
対話の成立する個人単位の共同作業によって為す
ものとして、優秀な者には優秀な者を、下位者には
下位の者を宛がう必要があろう。
上級生でも優秀な下級生ならば、打ちのめされて
しまうこともあろう。そのような体験も希には
あってもよいと思うが、それのみが体験の全てに
なってしまっては、そのような体験では歯止めとは
なり得ないからだ。