• 2009/10/30(金) 19:54:29

科学に、神を否定することは出来ない。

できるのは、迷信を偽神を暴くことのみ。
科学によって否定された「神」が、
「それまで神だと思われていた迷信」
だったことの証明であり、神そのものの否定
ではない。


科学が証明してきた結果は全て、
神の実在の証拠だ…とも言えるものだ。

神とは、そもそもにおいてそういうものだ。

あってあるものなのだから。

カタカナ語の要

  • 2009/10/29(木) 12:49:14

人は、聞き慣れた言葉であれば、
その意味を、内実を、本当に正しく認識して
いなくとも、分かった気になっているものだ。


だからこそ、あえて聞き慣れない言葉を持ち出し、
その用語を説明する課程において、
「なんだ○○か」と思われてしまう前に、
失念してしまっている本来持ち合わせていた
今後の説明に必要な概念を要素を頭に留めさせる
ように誘導できる。


その一つが、外来語直利用のカタカナ語が、
全く新しい用語を創出するより楽であり、また、
無意味に無駄な用語を増やすことも回避できる。


例>
ロコモティブ・シンドローム
…それって要は、運動不足でしょ?


言っちゃえばそうなのだろうけれど、
「運動不足」という言葉の持つニュアンスの中に、
子供が叱られて注意されているような、
単なる怠け者であるかのような情緒がある。

そう言われると、幼稚なことと問題を見下したり、
子供扱いされたと不愉快に感じてしまったりして、
問題の本質に耳を傾けるまでに行かない。

…のだと思われる。

そこで、新しい伝染病のような、新発見の病気のような
不安を伴ったものとして、カタカナのよく分からない
「病名」として「知っていますか?」と持ち出されれば、
身構えて聞くことになる。

結果として、「要は運動不足じゃん」と思ったとしても、
そう気づくまでの課程において。単なる運動不足であっても、
それが馬鹿には出来ないこと、かといって手遅れでもないこと、
その必要性や、自分の考えた至っていなかった側面などを、
知ることに、学ぶことになる。



いちいちカタカナ語を持ち出さないならば、まず得られない
であろう体験を知見を、そこでは得ることになる。

熱血教師衰退の背景

  • 2009/10/28(水) 17:43:15

熱血教師型の教育の“底上げ対策”が、
すっかり廃れてしまったのは、

それが、依怙贔屓や不平等だと言われるような
批判に説得力があったからであろう。



さらに言えば、いわゆる「不良」のように、
反社会的行為に及ぶ者ばかりに手を重くかけ
彼らを社会的に成功させてきた。その影で、
真面目で温和しい者達が、ほったらかしにされ、
放置されてきた。



そのような「底上げ」は、言うなれば、
末端を上位に“割り込み”させるものである。


中間層が不満に思うのも当然である。
また、偶然にしろ、好悪の結果にしろ、教師の
目に止まらなかった者が、選ばれなかったことに
妬みを覚えるのも当然であろう。


熱血教師型の底上げ対策が注目されていた時代は、
そのような対応に対する都合の良い勘違いが
解けていなかったからであろう。

まだ、そのような底上げが有ろうが無かろうが、
上位が自らの地位が脅かされる心配も抱く程でもなく、

中間層にあっては、そのような救済の対象に自分も
含まれているのではないか…という期待を、未だ
持ち得ていた頃のことであろう。



あるべき底上げとは、努力の差により、多少の
評価の上下が起こっていても、全体としての
集団自体においても、順調に実力が上昇する
ようなもの。



そのような形態が維持されてる前提にあって
問題となるのが、単なる相対評価では見えない
絶対評価による実力の上昇。努力が無駄でないと
思えるだけの、生徒への自覚の誘発の仕組みである。



それが無かったから、努力しても競争に負けてしまう
者が、その努力を常に同じ順位であることを理由に、
無駄と考えてしまうことになる。

「努力してもしなくても、どうせビリだ」というような、
自意識の固定化。それによって、努力し成長を放棄して
しまう層が、努力を続ける層との間に、二極分化が
進んでしまう。しかし、その分裂がどんなに深刻化しても、
クラスなどの小さな集団内での「相対評価」だけでは、
そのような感覚は、なかなか自覚化されてはゆかない。




故に、それを解消させるためには、
全国模試のようなものではなく、


例えば、上級生や下級生との交流を活発に行うこと。

クラスでビリでも、下級生(の普通)よりは、断然優秀
…知らないことを知っていて、体力も上である…ことが、
自尊心を涵養し、下級生には負けられないという、
プライドを脅かす形での最低限の努力までもを怠る
ことの無いように歯止めをかけることにもなろう。

注意しなければならないのは、そのような交流は、
対話の成立する個人単位の共同作業によって為す
ものとして、優秀な者には優秀な者を、下位者には
下位の者を宛がう必要があろう。
上級生でも優秀な下級生ならば、打ちのめされて
しまうこともあろう。そのような体験も希には
あってもよいと思うが、それのみが体験の全てに
なってしまっては、そのような体験では歯止めとは
なり得ないからだ。