世間の中でのみ生きること

  • 2009/07/11(土) 15:55:48

その人にとっての全世界。それが世間である。

ここで言う全世界とは、言葉通りの意味ではない。
言葉通りと言う言葉は、言い換えれば「知識」だとか、
「教養」だとかいたものに置き換えられるような意味
である。


世間が全世界であるとは、どういうことか。



例えば、子どもは家庭が全世界である。
赤子は母の胸の中が全世界である。

自分が直接関わり、その関係性が壊れれば、
自らの身に危害が及ぶ関係。自己の存在を
規定する範囲。それがその人にとっての世界であり、
その意味に於いて全世界である。


それが延長されてゆけば、小学校の自分のクラス。
自分の所属する学校…および、ご近所さん。
校区、地域、市、県、国、全世界…と拡張されて
ゆくのだろう。


昨今、親殺し親族殺しが問題視されているが、
その者(犯人)にとって家族が全世界となって
いるから、その範疇での解決にしか頭が回らない。
自らの不遇を解消する手段が家族との関係にしか
ない。故に、自らが限界まで困窮しても、
その殺意は家族にしか向かない。

同じように、友達関係が全世界になってしまって
いる学生は、友人を殺すことになる。

ちなみに、
昨今海外からの評価を一切気にしない
若者が増えてきている。一面では、戦後世代の
欧米崇拝から脱却した自尊心の表れだ…と評価できる
のであるが、一方で、国際的な評価が自国の経済や
国内情勢にも影響があり、自分の生活にまで危害が
およぶ関係性が見えなくなっている表れでもある。

この意味で、戦争も、国の視野が隣国で視野狭窄に
なった時に、それ以外の解決策が見えなくなって
起こる。と言えるかも知れない。



これは、知識・教養として、テストされて
筆記で堪える事ができる…というような
意味で「知って」いても、そのようなものは
ほとんど関係ない。知らずに困窮している者に
教えてあげることが、一縷の光として救いの
切欠を与えることになる場合もあるだろうが、
限定的空間を全世界と感じてしまっている
ような状況に陥っている者に、広い世界に
対する知識が無いのだ…とは言えない。

それが、おそらく半世紀前よりは知識的に
よっぽど賢くなっている若者が、老輩の目から
軟弱な若者としてバカで愚かにしか見えない
思えない事とも通じている。