不況による大企業の副業海禁の動き

  • 2009/06/17(水) 12:53:00

これで正社員の世界にも、自らもアルバイト・短期派遣を体験し、
その劣悪な雇用環境・ピンハネ体質をその目で見る者が、
生じることになるだろう。

多くの政治に関心の無い者までも、問題の存在を知ることに
なるはずだ。

これによって、職業差別を緩和させるべきだとする意識が、
広まってゆく可能性は高まるだろう。




しかし、楽観はできない。


ワーキングプアにもなれない失業者を、さらに、
雇用機会の場の外へと押し出す結果となる
かもしれない可能性も秘めているからだ。

それは、いわゆるパートの問題とも似ている。


パートの賃金体系が総じて劣悪なのは、バブル時代、
裕福な主婦が、誤った社会進出願望によって、
趣味程度の体験目的で、殺到した背景がある。
彼女らが安い給与で満足して働くことによって、
母子家庭では生活ができなくなってしまう。
薄給でも生活が困るわけでもない連中の常識の中で、
ワーキングプア状態でフルに働いてもまともな生活が
ままならない者が、仮に待遇改善を求めても、解雇にしか
繋がらない。賃金に頓着せずに小遣い程度で満足して
働いてくれる者達が、その穴埋めに喜んで働いてくれる
からだ。解雇されれば本当に生活ができなくなってしまう
のだから、安い労働力として固定化されてしまう。



…その構図が、正社員と非正社員との間で、加速度的に
進んでしまうかもしれない。


もともと日本人はそれほどカネに頓着しないし、
不浄観から話題にもしない(するのは婚活女くらいか)。
不満を持っても、おそらく簡単には辞めない。
「辞めるのは逃げで負けだ」くらいに考える。
通行中に誰かに抜かれたら抜き返さずにはいられない
ようなガキな感覚で。



サービス残業にも慣れきっている彼らによって、
アルバイトで食いつないでいる者らの生活の糧が
彼らによって奪われ、断たれてしまうことに
なってしまっているかも知れない。

と、憂慮せざるをえない。

稔るほど頭を垂れる稲穂かな

  • 2009/06/14(日) 20:49:15

稔るほど頭を垂れる稲穂 ≒ 金持ち喧嘩せず


貧乏人がのし上がるには、
喧嘩のようなリスクの高い賭けに出る
以外に方法がない。

金持ちは、喧嘩をする必然性がそもそも無い。



貧乏人の間では、頭を下げる…自らの非を認めることは、
直ちに賠償を毟られることであり、生存権の危機である。
しかし、権力に組み込まれた特権的地位にある者ならば、
いくら口先で謝罪しても、形式的に頭を下げても、
なんら存在が脅かされることはない。故に、必然的に、
平然と頭を垂れることだってできる。
いやむしろ、頭を下げるだけの方が、安上がりだとすら
言えるかもしれない。

そう考えれば、この言葉もそれほど殊勝なものでもなく、
道徳的なものですらなく、とても合理的なものである
と言えそうだ。

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体験主義者

  • 2009/06/13(土) 16:34:27

自らが体験によって変わった経験を、

成長という呼び方によって、優越思想に組み込み、

その変化を、上位の象徴や証として考える。

上記は、私が体験主義者とでも呼びたい行動様式である。



そして彼らは、その体験と同じ経験の無い者を、
もしくは、その変化によって身につけた自らの考えを、

ただの変化でしかない…かもしれない…それを、


他者に強制し、自分が「成長」して身につけた考え方を、
その考え方を元にして行っているいる行動を、
同じように行わない者を、見下し、貶み、拒絶する。

その者が別の成長をし、別の役割を担おうとしている
…という役割分担論的な考え方ができない。


だから彼らにすれば、その者の存在こそが、社会、集団の
乱れの原因と、諸悪の根源とすら、見なすようになってゆく。



成長という言葉は、常に前進であり、以前の自分が
気付かなかった境地への到達としての自己拡張が
行われている…が故に、脱皮に似た感覚を伴う体験を、
直ちに、自らをより上位の存在へと押し上げたかの
ように受け止めがちである。


しかし、ちょっと考えて欲しい。

例えば…こんな喩え話を持ち出してみよう。

数学が得意でそればかり行ってきた者が居たとする。
中学生にして、大学の教科書を読みこなす者である。
その子が、ある体験で国語の楽しさに目覚めたとする。
いくら数学に秀でていたとしても、国語の感情表現
としては、幼稚園レベルのその子が、その体験によって
小学生レベル程度の問題を意識できるようになった。
…とする。その子の体験としては、主観としては、
正に目から鱗が落ちたような、脱皮するような、
成長体験であろう。また、その主観からすれば、
大学レベルの自分が身につけた境地なのだから、
周りの人間には誰も解りはしないものだとすら
考えるであろう。
しかし、客観的に見れば、やはりその子の到達した
境地というのは、所詮、小学生レベルであり、
数学で築いた彼の立っている境地に比べれば、
数段劣った場所に立って、自らを誇っている
ことになる。



あらゆる成長は、その個人の世界観という観点から
プラスであってマイナスなことは何もない。
だからといって、あらゆる「体験」が、すべての
人間に共通する成長の「指標」になるわけではない。
ということを見逃してもいけない。

この喩えの少年が、数学での優越性を根拠に、
周囲より劣った国語のレベルでも、他者に対して
自らの優位性を誇ったり、その境地で得た教訓を
周囲に強制するならば、そこに捻れが生じる。


劣った手段をそれより勝る境地の者に、それ以外を
行ってはならないかのように制約をかければ、
社会・集団としての汎用性までもが失われてしまう
ことになってくる。

このようなことは、実社会ではしばしばある。
判りやすい例えでは、受験勉強の得意なだけの奴に、
人間性が感じられない…地頭が無い…というような、
ものとして頻繁に耳にすることだろう。





しかし、経験主義者は、しばしば、誰もが同じ体験によって、
同じ境地に立つことになると、どこかで信じている。

だから、「体験が大切だ」と言って、同じ“ような”境遇に
相手を、子どもを落とし込んで、「教育」は十分だと
思い込み、平然とネグレクトできてしまう関係性でもある。

「子どもは学校に行けばよい」と教師に子どもを押しつけて、
学校での振る舞いに興味を示さない。
「大学に行けば良い会社に入れる」と言い、入学だけを
見届けて、そこでどんな教育を受けているかも、何を
学んでいるかもどうでも良かったり…、
「社会に出れば判るはず」とだけ考えて、どんな企業、
どんな社会に所属しても、単に所属さえすれば、自らの
望むような「成長」した人間になる…だろうと考える。


しかし、選んだ場所によっては、利権にしがみつくだけ
の処世術を学んだり、偽装の手練を叩き込まれたりする
場合もあるわけだ。




だが、ここで再び考えていただきたい。

上記の例えでは、判りやすく数学・国語という
教科によって形容してきたが、体験とは、そんな
簡単に類型できるものではない。実際には。

例えば、「命がけで誰かを守り、自ら瀕死になった経験」
だとか、「傲慢さから人を死なせてしまい、その深い
深い後悔から自己犠牲の行動がとれるようになった者」
だとか、ドラマに描かれるような成長譚を例に挙げても、
同じ体験によって同じ境地に立てるとは限らない。


深いトラウマを抱えているから、その人の発言と行動に
信頼が持てる
という場合もあるが、そのトラウマ故に、
自分を特別な存在だと見なし、横暴・傍若無人な行動を
取ることを正当化できてしまう者
もいる。

「大きな失敗をしたことも無い奴に大きな仕事を任せられない」
という言葉に一面の真理があるとしても、だからといって、
大失敗をした者を要職に就けることを忌避することもまた
合理的だ。潔癖な経歴を守るために、人一倍慎重に振る舞う
場合もあろう。



あらゆる意味で「経験」が大切なことを否定しはしない。
どのような辛い/甘い経験であっても、その後の人生に
生かせない経験など無い。生かすも殺すも、その者の
その後の選択次第だ。

ただ、「経験」の中身を「体験」の質を問わずに、
漠然とした「体験」だけを薦めるだけで、
それで事足れりと考えるのはどうかと思うし、
無責任であろう。

また、それが実践されたとして、同じ境地に立ち、
よりお互いがわかり合えるようになる可能性よりも、
異なる状況から異質な確信を得て、より理解し合えない
関係になる可能性の方が、むしろ高いと言えよう。




そして、お互いの関係をより良き関係へと構築してゆく
のに、どこか別の場所で、預かり知らない社会に出す
だけのことを「体験だ」と言うだけなのも、人と人の
関係性としてどうだろうか。


人と人の関係性を構築して行くことに必要なのは、
お互いがお互い同士向き合い、お互いで対立したり、
自らの考えを示し合ったりするその体験こそが、
相手を思って考えるその経験こそが、大切なのでは
なかろうか。


もちろん、お互いが知らない場所で得た知見を、
互いに持ち寄り話題にして、間接的に知識を深める
ことを無駄だと言っているのではない。それは
大切である。

しかし、その互いの知見を尊重し合い、互いの経験を
知識として受け止め合う関係性が、そもそもにおいて
無ければ、いくら貴重な体験を他でしても、重要な
情報を知識として得ても、互いにとって価値あるもの
として通用することは、決して無い。