自爆する若者たち

  • 2009/01/15(木) 20:47:27

自爆する若者たち―人口学が警告する驚愕の未来 (新潮選書)
グナル ハインゾーン
新潮社
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これまた身も蓋もないことをが主張されちゃってますね。

 若者は若者であるというだけで、驚異である

 ユースバルジ(若者人口)が 暴力の源泉


そんなこと、時の為政者は三千年以上前から当然のように
知っていたことであろうに…。


だからこそ、教育を施したり、徳を説いたりしてきたの
だろう。僧として隔離収容してきたのも…。

ポストを与えるルールを暴力から遠ざけるために。



ここで言う「中立状態」の人口比の数値だって、
ここ数百年からのデータではそう言えるってだけ
であって、太古にあってはもっと少ない値で閾値を
超えていたであろうし、文明化された将来においては
ずっと上がることになろう。

戦闘最適人口だとか軍備人口だとかの分類線引きも、
生物学的な基準はあっても、栄養状態や平均寿命など
によっても、大きく変動しよう。客観的な指標は
作れるのだろうか…。



話を少し視点を引いて…

弱い人間は子どもを怖がり知識に逃げ込む。
強い人間は動物的に生きて、子どもを増やす。
ヤンキーの多産っぷりを見てもそれは頷けよう

そのように、社会としての教育レベルが順調に進歩・
発展していったとしても、そうではない人口の比率は
どんどん上がっていってしまう。そして、ある時を境に
旧来の文明は多数派にとっての無用の長物となって
しまい、革命的な転換を迎える。それが歴史の繰り返し
ってものだ。それを伺わせる側面はいくらでも見て取れる。



権力者が差別化を謀れば謀るほど、このリスクは増大する。

平等教育が「正義」であるのは、これ故であろう。

右や左の論客が言うように、国力増強や、福祉・破壊の
ため故でもない。





著者の主張していることは十分「理解」できる
のであるけれども、戦争は対策として逆効果
であろう。

筆者の行間からは、戦争は正しく、世界平和のためには
戦略的に、あえて子どもを大量に殺すべきだとでも言って
いるかのようだが。昨今のガザ地区の空爆のように。



私には、何の生産活動もせずに少年兵が大量に生きて
いられる世界がどうして成り立つのか全く理解できない。

そのような無産者を、強盗や略奪で一時的に養えても、
社会全体の生産力は壊滅的に落ちてゆくはずだ。
現代の紛争地のような近代兵器を備えた軍事集団は
どこからそれを入手しているのだろう。

人口比だけで結論を出してしまえるものだとは、
どう考えても辻褄を合わせられない。元凶は外の
世界とのネットワークにあるはずだ。


また、若者のパワーは場所を与えるために動員する
ことも可能であるはずだ。それは、未開の地の多き
途上国ほど容易であると、私などは考えるのだが。
アフガンで日本人医師が行っているように、
自らの活動が、確実に居場所を作り、奪い合わずに
それが行えるのだ。

変にテロ教育されてしまった原理主義的染脳兵士
でもなければ、自分で考えて、どちらに利があるか
判ろうものだ。純粋で素直な子どもならば、なおさら。



親の世代に家父長的で保守的な排除傾向こそが、
若者から暴動以外の選択肢を奪うのであろう。

もちろん日本にも「田分け」という俗諺があるように、
子への平等分配は、散財に繋がる。上手にやらなければ、
一族もろとも生活できなくなる。これも一つの真理であろう。
土地が限定されているという条件の下では。

アメリカやイスラエルの行っているような空爆による
社会資本の破壊は、そこで暮らしてゆける人員を
減らす。イス取りゲームの椅子を破壊しているような
もの。ただでさえ足りていないところに数を減らせば、
争奪戦は激化すると考える方が自明であろう。


そして、今、紛争が問題となっている地域にあって、
どこも社会インフラが開発し尽くされているとは、
とうてい考えられない。

また、最先端の科学技術を惜しみなく投入すれば、
奪い合わなくてすむ社会基盤を構築できそうなものだ。

それは同時に、今、温暖化問題の中で、後に先進諸国に
とっても必要となるかもしれない技術を実践できるチャンス
でもある。どうせなら大いに利用すべきであろう。


とは言っても、やはり、過剰な出生率は、発展の速度を
待っていられない側面も確実にあり、多産の文化が
温存されてしまうならば、どんなに発展しても、
根本的な問題の解決にはならない。

なんだかんだ言って、軍事防衛に向かうのではなく、
女性の権利回復こそが、最終的な解決策になるのだろう。




P38時点での感想。

心神耗弱による罪の減免

  • 2009/01/15(木) 12:59:05

合理的にその規定の起源を考えれば、おそらく、


窮鼠猫を噛む状態で行わざるを得なかった罪に対しては、
これを減免する…というような趣旨であったのだろう。

今で言うパワーハラスメント状態で、昔の蟹工船のような、
日常的なストレスに曝されて、また、労働対価の限界を超えた
ピンハネによって、栄養失調で意識朦朧、我慢する忍耐も
判断力を発揮する余力も無いような状況に追い込んでいる
のであるならば、例え逆上されて刺されても、それは、
刺された側の自業自得であって、刺した側を罰するのは、
あまりに正義に反する。…というような論理において。

権力者の側からの「転び公妨」のようなものは許さない。

…と。


それが、何故、
このような状況になってしまったのだろうか?

私には、例えば…権力者の側の息子や近親者の罪を減免
させるための方便として、これが悪用された経緯でも
あったのではなかろうか…としか考えられない。


また、例えば、
自らの欲望のために、出世欲や金銭欲から、
「残業乞食」に明け暮れて、心神耗弱状態に
なってしまったならば、これもまた自業自得。

そんなもの“飲酒運転”における危険運転致死傷罪の
ように、むしろ罪を加算しても良いくらいだ。…と
私ならば考える。
  もちろん、サービス残業のような職場の被害者を
  同列に論じてはいない。彼らこそ、権力の被害差だ。

なんで、このような良識的な判断が成されないのだろうか。
日本の司法は。



ちなみに、知的障害者や精神障害者の罪も同じく減じる
のは、理解できる。それは、未成年の罪を問わないのと
同じ意味で。

しかし、そのように罪に問わない恩恵のようなものと
引き替えに、なんらかの社会的制約も同時に負わせる
べきであるとも考える。

それは、未成年者にアルコールやたばこを禁じるように。
運転免許証の取得を制限するように。


その代価として、子どもが大人の庇護の元にあるように、
行政的保護の元に守るべきである。これは差別ではない。
社会を守ると同時に、その者個人をも守るために。

程度問題の比較と混同されると問題なので断ってから、
例えば、よちよち歩きの子どもを池の近くで遊ばせない
ようにすべきであるように、ブレーキに足の届かない
子どもが、公道を大型車で暴走することなど、当然
させるべきでないように。これは両者の利得である。


もし仮に、平等の権利の下に、そのような危惧される者
に対しても同等の許可を出すのであれば、対価としての
庇護を失わせるべきであって、これを理由に罪の減免も
許すべきではない。当人の責任に帰すことがなくとも、
例えば保護責任者を指定するなどして、社会の側に
一定程度の安心の担保を準備すべきだ。


そのような手順を踏まないからこそ、差別主義者の
偏見的な意図によって、一律に全員があたかも危険
であるかの如きレッテルを貼られることを許してしまう
のであろう。私は、障害のある方を特別危険な存在だ
とは考えていない。むしろ、一般よりずっと安全な
存在であろうと見なしている。