上下関係

  • 2009/01/24(土) 18:04:53

日頃、他人の下で働くのは嫌だ…と、言っている
にもかかわらず、目下からの指摘に抗うのは、矛盾だ。
その態度は、他人を使う資質を自ら放棄するようなもの。

多くの場合、目下の人間の正論というものは、
目上の人間から「教育」された結果であるはずだ。

それは、自分でセットした目覚まし時計が鳴って、
時計に命令されて不愉快だと憤慨するようなものだ。

理性的に考えれば、自分の成した結果であり、
自己判断・自己決定の結果としての早起きである
として、自らの意志決定を誇るべき場面であろう。


そのようなものを、端から他人からの命令だと受け止め、
拒絶してゆく態度を繰り返してゆけば、自分がこれまで
考え、教え諭してきた総ては、自ら考え導いた経験は、
最終的には総て、他人からの命令として失ってしまう

結果にしかなり得ない。


目下の者が正論を吐けば、そこでいちいちイラッと
する必要など無く、それによって自尊心をいちいち
傷つけられるのも、幼稚であり、愚かであろう。



「ありがとう」と素直に答え、感謝によって
その価値観を今後も守るように促すとともに、

俺の教育の結果だ…と、指示が行き届いているのだ…、
自尊心を擽り、高め、確信する機会
として積み重ねて
ゆけばよい。

現実的にそれが自分の指導に寄ったものであったか
どうかなんて細かいことだ。いちいち憶えている
ことなんてそもそもできやしないし、そんなケチな
ことに労力を費やすのも無益なことだ。

目下の者も、自分が誉められれば無碍に否定する
こともあるまいし、それを繰り返すうちに実際どう
であったかなんて、繰り返しの中で当人も判らなくなる。

現実にお陰かどうかなど関係なく、その都度誉めて
くれる目上の相手に親近感を持つであろうし、
それと関係なく感謝と尊敬は高まってゆくであろう。

その関係の中では、共に高められてゆく。



理由が何であれ、目上の者が目下の者の正論を、
若造の無知だとか、甘さだとか理由をつけて
頭ごなしに否定してゆけば、
目上の者が尊敬を得られることもなく、また
目下の者の自尊心は砕かれる。
なにより正直に生きることを疑わせる。


良い上下関係が培われてゆく事もなく、組織として
不和と破滅の道を落ちてゆくことになろう。

「自分で考えろ」という言葉は正論であり、
その態度のもたらす果実も小さくないとしても、
その言葉が使われるべき箇所は、ここではない。

空気だと感じる三つの肝

  • 2009/01/23(金) 18:04:00

「空気」に憤りを覚えている者は、

それが次の三つの内の何れかを、見極める
必要がある。


1.それが他人の…誰か極一部の人間の思惑
  でしなないのか。


2.自らの内なる「公平な観察者」と、それに
  抗う利己的な自己欺瞞幢との間の葛藤
なのか。


3.社会の習慣が要請する迷信のようなもの
  なのか。



それが「3」であるならば、科学がその身方に
なってくれるはずだ。客観的な真実とそこから
導かれる帰結への過程を討議してゆく中で、
問題は開けてゆくであろう。
もちろん、全ての迷信が必ずしも悪であり、
根絶させるべきものでもない。


それが「2」であるならば、これに抗うことは、
天に唾するようなものである。自滅に向かうのは
必定。その空気に従うために、どう自分を納得
させるかは、自らへの尊敬…自尊心と存在価値の
意義付けへと繋がることでしょう。



それが「1」であるならば、仮に発信元を特定
などできなくとも、どのような者の利害に
影響があるかを見定めなければならない。
自己利益を謀るならば、どのようなメンバーで
運命共同体を構築するべきなのか、
その「空気」に乗った場合、自らに損失が無い
としても、どのような者に不利益が集中するのか
を見極め、その被害の集中が結果的に自分の
良心の呵責につながるような結果に成りはしないか
を、注視しておく必要がある。

多くの「イジメ」や「差別」の結果も、
そのような攻撃の意図無き個人的利益誘導の
結果として最終的に構築されてしまうもの
でもあるのだろうから。




しかし、ここまでに列記した「空気」とは、
「どうすべき」のように、自らを縛るなにか
定式が見えた時点で初めて言える結果的なもの
でしかない。

広く「空気」ではないかと感じられる
プレッシャーというか圧力というか雰囲気は、

集団の中で、個々人が感じる感情の流れ、
憤慨したり上気したり、滅入ったり悲嘆したり
する、吐息や全体的な酸素濃度というか
熱気や冷気、個々人が発散したホルモン分泌
もろもろの重ね合わせの結果に対して
容易には抗えない、本能的な反射神経。

そんな、非論理的で理性的な精神作用の力である。

…のかもしれない。

例えば「欠伸が感染る」ように、そのような
力が現実にある手段の個々人の判断を導き、
決断を左右するならば、上記の対応は全て、
「その場」では有効な手段としての力を
なかなか発揮することを期待できそうにない。




空気の支配する所…そのような討議の場…「決戦」に
向かうには、それ以前の準備が結果を左右する。
揺るぎ無い意志の力を、事前にどれだけ
刷り込んでおくかがものを言う。

他人の言葉に惑わされずに、自分を保てるかは、
日常的に些末な意志決定にまで、どれだけ
合理的判断を積み重ねているかが顕れるもの
だろう。何となく、好き嫌い、雰囲気、勘、
思うまま…、それらは即断力として現実的に
利得をもたらすものであろうけれども、
空気に抗う力としては、戦力として心許ない。


これほど大仰な仮説を持ち出すまでもなく例えば、
賞賛の嘆息や、侮蔑の視線など、視界の中で展開
される価値誘導も、個々の意見の良否判断に対して
無意識的なレベルで影響を及ぼしたりもするものだ。

特定キーワードと感情との関連付け、それに伴う
善悪や、貴聖汚辱の価値化。それを感情の上で
操作して、論理とは異なる精神の中での結論の誘導。
敵味方感情と話者の語気による言葉の解釈が正反対に
割れる我田引水的な思考性向。誰に何を言わせるか。
発言の否定・肯定ではなく、誰にどう受け止めさせ
るか。誰に何を言わせるか、それを引き出すために
どう誘導するか。
無意識的であるが故に、なかなかその作用を実感
することはないのではあるが…。

現実に、戦略的な者は、聡い者は、その作用を
意識的に使用している。していることを伺わせる
者が少なからず居る。

だから、文章で「議事録」を残すことは、
単に記録を後世に残す…というだけではなく、
現在において「空気」から理性を守る砦
でもあるのだろう。

録音・録画に置き換えれば失われるもの。

キャラ論

  • 2009/01/22(木) 18:03:02

心に秘めた世間へのメッセージと
その伝え方はどうするべきか。

戦略的に考えたら、
とにかく無骨に叫び続ければよい
と言う訳にはゆかない。


イジメられキャラは、何言ってもイジメられるのだから、
言葉としてメッセージを、例えば「イジメ反対」と言ってしまう
ことは、その目的としてはマイナスである。
イジメ根絶などは、むしろ遠ざかる。

イジメられるよなヤツの言っていることだから と、
その主張はむしろ、世間的に逆に受け止められる。
もっとイジメよう…と、そんなヤツの事に乗って
しまうと思われたら格好悪くて立場無くなる…と。



だから、
イジメられキャラで「反イジメ」を目的とするならば、
むしろ「イジメ容認」の発言をすべきだ。

「ああそうか!」と、個人としてのイジメは
むしろエスカレートするかもしれない

が、けれども、
第三者の良心の呵責に訴える酷さを伴って、

また、
あんな見下げたヤツの言うことと同じ行動なんか
とれない! というカッコ悪さも伴って、

イジメ文化はむしろ早く収束に向かってゆくことになる
のではなかろうか。


このとき、イジメストップを成したのは、別の
偉そうなヤツのお題目のお陰だとして、手柄が
認定されることになるであろう。が、私はそんな
実体に相関性を構築し得ていない者を評価しない。
後乗りの日和見連中も。

私は、イジメを演じた被害者を讃えたい。


ここで「演じる」と言っているのは、例えば
イジメられてヘラヘラ笑っているようなヤツや、
自虐的に自分を扱き下ろして、相手に言われる前に
先に自分から言ってしまおう…というような、
弱さの裏返しの保険をかけた行為でもない。


泣きそうになりながらも、辛いことが隠しきれて
いない状態でも、そこから逃げない者のことだ。
例えば、南海キャンディーズの山ちゃんや、
ザブングル加藤の演じてみせた役回りのように。

この場合として適切な例示にはなっていないか…。
彼らは逆主張をすることは無かった。いや…加藤は
どうだったかな。