子年一了

  • 2008/12/31(水) 23:59:59

…‥。
















■あおじ/冷静に■■あかじ/感情的に■■みどじ/蛇足的に■■きいじ/冗談的に■
■こいじ/強調を■■めいじ/念を押す■■きえじ/自信無し■■うすじ/補足・注記■

犯罪衝動

  • 2008/12/27(土) 21:51:26

先ほど、爆笑問題太田光や宮崎哲弥などが、
平成少年犯罪史を振り返る中で、

凶悪犯罪のようなものは、つまらない。
長く記憶に残らないのだと教えてあげねばならない


…とか言っていた。

太田光など表現者として、人のあらゆる行動を表現として
解釈してしまう執着は解らなくはない。が、しすぎだろう。



十年前の犯罪動機には、そのような処方箋も有効に作用した
であろうけれども…。今の時代ではむしろ逆効果だ。

今では、目先の生活費を得るために手を染めるような時代だ。
単なる泥棒・ひったくりが、弾みで強盗・殺人へと発展して
しまっているのだ。

このような動機が主になりつつある中では、「ありきたりだ」
「世間はすぐに忘れてしまう」という言葉は、そのような者の
自制心を、むしろ緩めてしまうことになる。


一生背負う罪である…というような感覚が無くなってしまえば、
捕まった者は、「運が悪かった…仕方ない、×年耐えよう」と
言うように思うだけ。反省したとしても、今度は上手くやろう
とでもいうような感覚のまま、再び繰り返すことになる。

  • 2008/12/26(金) 17:50:59

加害者のみが守られ、被害者名のみの公表。

…これを絶対悪のように受け取られているらしき、
昨今の若者のマインドに、一言添えておきたい。

もちろん、そのようなスリコミが行われるに至った、
これまでの報道に一理あり、対策が必要なことに
異論があるわけではないが…。




被害者名の公表…それが当たり前に受け入れられていた頃、
おそらく、被害者に同情が寄せられ、支援があったからこそ、
その公表はむしろ、それこそ“社会正義”だったはずだ。
だからこそ、さほど問題視されずにあったのだろう。


しかし、バブル景気の頃、ミーイズムな頃、自己中心的で
自己利益中心主義的な俗情がメディアの中心となった頃から、
その「前提」が忘れられ、失われた。


報道の動機付けが、“視聴者の求めるもの”が、
下劣な興味本位、野次馬根性のみとなってしまったこと
によって、報道は、される者にとっての「被害」以外の
ナニモノでもなくなってしまう。


そこに、「運」にまでも拡大適用される「自己責任」論が、
被害者への同情よりもむしろ、軽蔑のような、汚れのような、
不幸が感染するかのような、その者の先天的な「罪」の証明
のような、天罰のようなものとなってしまう。そこで初めて
被害者は二次被害に苦しむことになる。
二重、三重に苦しめられ、社会的に排除・迫害されるに至る。




ではなぜ、そのような報道が過熱・横行するのか。
そのような「罪」を受けていない自分への逆証明…自尊感情を
満足させる道具として、麻薬が売れるように、美食がブームと
なるように、ひたすら消費されることが望まれているからだ。


故に、社会的に問題であるのは、対処が必要なのは、こちらの方
であって、昨今の議論の延長線上で、単純に、対処療法的に、
「被害者の匿名性が守られる」ことになってしまったら、
被害者救済はされるどころか、むしろ、社会的に完全に抹殺…
放置…ネグレクト
されてしまうことだろう。


それは、ホームレスを公園から追い出して、排除してしまえば、
ただ我々の目に見えなくしてしまえば、あたかも問題そのものが
無くなってしまったかのような、解決したかのような錯覚に陥る
ことと、おそらく変わらない。

しかし、そのような「問題解決」は、むしろ、問題そのものを
解決から遠ざける。より深刻な問題として社会に降りかかる
ことになる。