人格と個人、集団とリーダー

  • 2008/09/09(火) 12:16:11

人は人格の芽生えと共に、
いくらか五感の制御を失う。


歴史的に土地の所有権意識の芽生えによって、
全世界を自分のものだと思えなくなるように。
一部の所有権を主張することが、同時に
他の全てを放棄する事を伴っているように。



人格の芽生えとは、脳内の一部キャラクター
そのの一つを、自分だと思うことによって、
他の選択肢を捨てることだとも言える。


選択肢の喩えを人の集団に例えるならば、
人格の芽生える前の個人というのは、
キリストの前のレギオンのような状態。

集団の全てが一つの魂を共有しているような
全体で一つの生命のような感覚の護持。

そこから、多様な価値観・選択肢を持つ
複数多様な人間の集団であることを自覚する
ことによって、集団を統括するリーダーを選ぶ
要請が生じ、情勢と状況に応じて異なるリーダーを
選択し直すことによって、一定不変の環境には
居ない集団を結果的に生き残らせることを可能とする。
一つの環境に完全合理的に適応した集団は、環境の変化に伴い
簡単に絶滅する。成員を単一の「正解」へ、同一に「教化」
してしまうことは、逆に言うと集団として、次世代への存続の
可能性を失わせることでもある。環境が変化する事が前提と
されている条件の上では。

人格の芽生えとは、集団としてみれば責任の自覚でもある。
しかし、個人としてみれば大きなリスクでもある。自分の
選択した人格に適合しない態度は取らないのだから、
客観的に自己保身となる行動を取れても、それを抑制する
脳回路を脊髄反射的に作り上げてしまう。オレはそんなこと
しない…と。そのような意味において、知覚していても
行動に反映されないと言う意味で、五感の一部を失うと
言ってしまう事と似たような状況にあるわけだ。

だから、人格のようなものを背負って生きるためには
社会の側からの承認が得られている自覚と、万が一の
事態にあって、救援されるだろうという安心感が得られて
いなければならない。逆に言うと、分裂症気味な者は
社会との間に信頼関係を構築できていないことと鶏卵の
関係にあるのだろうし、そのような者が何をするか分からない
…統一的な行動パターンを有していないように見えることも
根は同じではなかろうか。