「多様性」というディスコミュニケーション

  • 2008/09/06(土) 12:24:52

得に共感した部分を引用

ゆらぐ脳/池谷裕二 P86 L5〜
 今、「多様性」も「相対性」もあちこちで語られています。しかし、あまりに、
「あなたの立場は分かります。それは尊重します。一方、私は……」
 と、何でも「相対」で捉えて、相互の立場を容認しすぎてしまったら、それはそれで、それ以上の発展もなくなり、つまらない。一般に「多様性」は礼賛されるようですが、過度な多様性の受容は、一種のディスコミュニケーションであって、思考の怠慢です。
「それは、どうも、いいものには思えません」
 と踏みとどまることも、あっていいのではないでしょうか。会社の新人社員採用でも、「多様性」はもてはやされているけれど、この場合の「多様な人材」をいわゆる「バラエティ豊富で有能な人材」と同列に捉えるのはいかがなものでしょう。
「多様性」の醍醐味は「ランダムで雑多なバラエティ」より「系統の中の派生」と私は考えているのです。系統やつながりのあるものが派生して差異を生じる……この意味の「多様性」は英語では「バラエテイ」ではなくて、「ダイバーシテイ」と言うのです。ダイバーシテイで捉えてこそ「多様性」や「相対性」の世界の中で、他人と対話をすることの価値が見えてくるのではないでしょうか。
 ちなみに「複雑」も誤解されがちな言葉です。脳の神経細胞のシステムの複雑性を研究する時の「複雑」は英語で「コンプレックス」ですが、日本語の「複雑」は「混雑」「混乱」「混合」という「無秩序に混ざったもの」の印象が強い。これは英語でいえば「コンプリケーテツド」であって、生命的な複雑性とは意味がちがう。
「こんがらがった」だけではない「派生のある組みあわせ」という意味の「複雑」を理解することは、「部分の総和」にとどまらない脳全体の活動を「分かる」ための一つの入口になるのではないかと考えているのです。

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「過度な多様性の受容は、一種のディスコミュニケーション」

日頃私が最も必要で失われている態度だと感じていることを完結に言って下さっている。
ただこの言葉も危険な側面があって、これが予断を持って流通してしまったら、多様性の否定という完全なディスコミュニケーションになってしまう。バカの壁が売れた頃の「バカには何を言っても無駄だから何も言う必要はない」とでもいうような誤った解釈が流通していたけれども、そうではない。
「AもあるBもある」「どっちもあるよね」で話を終わらせてチャンチャンで済ませてしまっていては、そこからは何の発展もない。AとBとの良好な関係をどのように結ぶか…には、A、Bそれぞれのどのような特徴とどのような共通点と相違点を分別して行くかを、互いに意識し認識し共有してゆかねばならない。
「存在すら認めない」「無いこととして扱う」というレベルから、「それもあるよね」という「受容」は一種の多様性に向けた発展ではあるが、「だけどオレとは関係ない」というディスコミュニケーションの状態としてはなんら変わっていない。いやむしろ、解決されない過大が永遠に目の前にぶら下がっているようなもので、むしろ対立の火種を燻らせることになっているかもしれないわけだ。

「どっちもあるよね」
この言葉は話題を打ち切るためのマジックワードではない。そして、この言葉を遮ることは、補足することは、「どっちもある」という事を否定することでも、どちらかの立場を貶めることでもない。決して。
「どっちもあるよね」は対話の始まりであり、前提である。私はそのように考えている。