先祖のおかげ

  • 2008/08/11(月) 12:21:47

「先祖のおかげで今日の自分がある」

だから感謝しましょう…といった処なのだろうけれども、
昔の人はどうあれ、私はこのような言葉で鼓舞されはしない。


むしろ、こう言われた方が、引き締められる思いがする。
「先祖の苦楽の記憶を繋いで行くも消し去ってしまうのも貴方次第」


これは怖い。

例え目に見える範囲の親族がさした拘りもなく流されるように
生きているように見えたとしても、過去、様々な飢饉や戦乱を、
確実に乗り越えてきたからこその自分の存在なのである。


歴史を遡って考えれば考えるほど、常に延々と安易で容易に
繋がってこれるはずがない時代の連続ばかりを突きつけられる。

「死」以外に反省を認められない社会

  • 2008/08/09(土) 12:56:19


「死」以外に反省を認められない社会に
社会の側こそがなってしまっているのは
間違いなかろう。

だから、死刑が強く求められ、多少の犯罪にも
容易く死罪に値するのだと考えてしまう。


このような時代、社会にあって、
確実に伝わる反省を示そうと思えば、どうしても、
それはやはり「自殺」以外には無い。


そう考えざるをえない社会・時代になっているように
思える。

もし、そこで死ななければ、思い留まっていれば、
くそ真面目でバカ正直な者ほど、それがどんなに
小さな後悔であっても、贖罪がなされぬままに
放置され続けることになってしまう。

その反省をせぬ自分を、許すことが出来ず、
穢れた存在として、社会の害悪だとしか
思えないままに、罪悪感に耐え続けてゆく
ことになる。

改めて思う。
「罪」と「罰」の対応関係が失われてしまっている
社会だなぁ…と。

それを失わせたものは、「博愛」であった
であろうことが、なんとも皮肉なことではあるが。

ウヨクがバッシングするサヨク的言動…温情を
過剰にして、免罪の論理を過重に構築してきた
が故に、それら罪がどれもフラットなものと
なってしまった。

また、子どもに対する体罰の否定の行き過ぎのような
ものの産んだものとして、根源的に過ち多き子どもの
時代にあって、その過ちという軽い罪を「償うため」の
「罰」が「取り上げられて」しまった。

話せば解る…とは言っても、それだけで「許されて」も
本人は納得できない。表面上許しの言葉を下されても、
大人の面に蟠りは残っており、欺瞞が募るばかりだし、
当人もケジメがつかずに釈然としないまま放置される。

すっきりさっぱり罰を受けてしまった方が、肉体的な
痛みを多少ともなったとしても、その心はどんなに
救われるであろうか…。そう思っても飛躍ではない
ほど、子どもをとりまく現状というか…規定している
言論空間の「常識」が歪んでしまっているのを
感じざるを得ない。

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また子どもの自殺報道

  • 2008/08/08(金) 12:19:10

「命の大切さ」を「教育」なんて言っているから
子どもの行動の選択肢に「自殺」が加わってしまう
のではないか?

そもそも、そのように教えてしまうことがなければ、
その若さ故に「最大級の行為に及んでやる!!」と
短絡に思い込んでしまっても、家出や引きこもり、
他愛のないイタズラやイヤガラセ程度のことしか
思いつけず、幼い頭では考えられず、却って
「死」などには繋がらないのではないか…と私は思う。


「命」を大切だと権威主義的に「教える」からこそ、
それを選択肢の天秤の上に載せることになってしまう。
日常的に繰り返される中で、かえって馴れてしまい、
その中の一部は実際に行動を起こしてしまう。それは
軽率で気楽…一瞬の気の迷いと言えるようなもの
であっても、その一度は永遠に取り返しはつかない。


算数や国語の学習のように、その「知識」が日常的に
容易に引き出し可能となっているほど、それを解って
いるのだという「教育」の「常識」または「前提」が
当然のように同じくそれにも当てはめるに違いなく、
常に生きるべきか/死ぬかばかりを考えていることに
なれば、仮にそれが些細な挫折であっても、取り返しが
つなかいことであれば、その現状復帰し得ない結果に対し、
死以外の選択肢が思いつけようか…。それは、幼く想像力が
未熟であるほど、無力で社会化されていないほど、容易く
到達する帰結のはず。


「命の大切さ」などと軽々しく言っている連中こそが、
もっとも「命」を軽々しく感じているのではなかろうか…
とすら思える。


本当にそれを大切に思っており、それが保たれていることを
有り難いことだと思い知っているならば、むしろ、
例え「大切に」という言葉でも、軽々に口をついて出すことは
できないだろう。重い言葉であるが故に躊躇し、婉曲な表現と
なってしまうはずだと思う。



この教師も自殺した生徒に対し、ネットでの誹謗中傷…
「死ね」と言う言葉が短絡で「命」が大切であるのかを
教えようとしたつもりであったろう。そこを疑うつもりは
私には無い。大マスコミのように、酷いことが行われたので
あろうと断罪するつもりも無い。


ただ、言いたかったのは、「命の大切さ」を強調しすぎること
によって、その“命を軽んじた罪”を断罪する行為が、
命をもってしても償うことの出来ないほど罪深いものである
とでも言うほどに「大切だ」と、頭ごなしに「教育」しようと
していたのではなかろうかと思えてならない。


大切だと言うことは同時に、反面に於いてはそういう事でもある。



少年が自殺を選択したことで、もう一つ重要だと思うのは、
昨今の学歴信仰の復活の風潮…、その扱いの歪み。

エリートコースからの脱落が、ほとんど這い上がることの
できないかのような際疾い鬩ぎ合いの世界であるという扱い。
同時に、フリーター・非正規雇用の差別的扱いの現実と、
その常態化、とても問題視していると思えない政治状況
にあって、プライド高き者は、夢多き者ほど、
その後の人生を、ハンデを負って生きて行くことを、
無駄だと考えてしまうのも、状況として解らなくはない。


受験戦争と言われた時代、受験に失敗したことで
自殺する少年が現れたように、今回の事件、
昨今の学歴信仰の復活と共に、その歪んだ評価のされかた
によって、進学の躓きで死を選ぶ子どもが出るだろうとは
考えていた。私としては、やはり…と思わざるを得ない。