善意の世界

  • 2008/07/16(水) 12:14:38

このツライ世の中にあって、そのツライ風当たりが、
善意に基づいているのだと、好意に基づいているのだと、
思いたい、考えたい、…そんな心理が、このような言葉に
表れているのだろう。…例えば「ツンデレ」

また例えば、「女王の教室」も、そのような作品として
話題となった。


一昔前と比較して例えば大ヒットマンガ「タッチ」では、
そのツライ大人の人当たりを、純粋な恨み・復讐であっても、
真っ直ぐ受け止める大人な態度を子どもの側に求めた。
その態度を完遂させることが、大人の側を社会を変える
正攻法だとして。
この作品、同じ頃リメイクはされたが、この作品後半のテーマは
顧みられてはいないのでは?(未見)


それが誰にでも出来る行為ではないが、それを行う者を、
周りを率いる強いリーダータイプとしての態度とは分離させて、
一見フツーの少年なのに…として描かれ、特別評価されるでなく
そのままの評価で貫徹されている。

大衆に自己投影させて、それ故に広く支持されたのであろう
けれども。あの時代(1980-1990)にあって。

ちなみに、
今日では、すっかりそのようなヒーロー像には、説得力が失せて
いるのであろう。家系や運命や地位による初めから特別な条件を
備えている主人公が、さらに加えて努力し、仲間に支えられて
いるような者でなければ、主人公をはれなくなっているように
身請けられる(1990-2000)。


このなにかとツライ社会(バブル前と比べて)が、
ツラサを好意や愛情と読み替える根拠を
求めさせているのだろう。

それは例えばこんなところにも…。
無為無策にも見える政治を、そう素直に理解することが怖い。
そうは思いたくない。そうでないと信じたい。故に強い政府を望み、
そう思える要素を必要以上にクローズアップせずにはいられない。

とはいえ、流行中心たる若者世代は、もはや今、
バブル時代の豊かさも、その当たり前さも、その副作用としての
悪平等に縛られる息苦しさも知らない。
「女王の教室」的に、大人社会の厳しさを素直に当たり前として、
受け止めていることだろう。それは2007年問題の反省からの、
新人教育の意義の見直しと連動して。