ハイパー・メリトクラシー(超能力主義)

  • 2008/07/02(水) 19:28:53

軋む社会 教育・仕事・若者の現在
本田 由紀
双風舎
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ハイパー・メリトクラシーとは、非認知的で非標準的な、感情操作能力とでも呼ぶべきもの(いわゆる「人間力」)が、個人の評価や社会的地位配分の基準として重要化した社会状態を意味している。
ハイパー=「超」という言葉を関している理由は、従来のメリトクラシーよりもむき出しで苛烈なメリトクラシーだと考えるからである。なぜなら、ハイパー・メリトクラシーは、認知的な能力(頭のよさ)よりも、意欲や対人関係能力、創造性など、人格や感情の深部、人間の全体におよぶ能力を、評価の俎上に載せるからである。
また、ハイパー・メリトクラシーは、手続き的な公正さよりも、その場その場のアドリブ的な結果の成否を重視するという点で、不断のパフォーマンスによる永続的な証明を要求するからである。軋む社会 P53
現実的に実証不可能なものを評価基準にしているので、
将に永続的な証明の、不断の連続に、晒されてしまう。

そして、そのような環境では必然的なこととして、
些細な次元での行為の成否が、直ちに、全人格への評価
へも直結してくるようになる。

大人は平然と「一度や二度の失敗がなんだ」と言い捨てるが、
全人格的な否定などされたら、それは一度であっても全てであり、
そのような緊張感…生死を賭けているに等しいチャレンジ…が、
毎日、毎時間、毎分、毎秒…際限なく細切れに襲ってくるのだから、
この国の自殺者の多さも頷けるというもの。
そのような契機となった事例は、切欠として他愛のない要因が
時に例示されもするが、零れる前の最後の一滴であって、根本的な
原因とはほとんど関係無いと言って良いだろう。
仮に、誤字脱字を指摘されたといような些細なものであっても、
そこに全人生が投影されてくるのだ。些細であっても明らかな
失敗であるが故に、確実な、否定のできない失敗として…、
ひいては、致命的な人格崩壊にもなりかねない。

もはや「超・能力主義」というよりも「超能力・主義」と
言ってしまっても、さほど違和感は無い。
むき出しで苛烈なメリトクラシー

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