日本式?「はだかの王様」の読み方

  • 2008/05/18(日) 22:52:10

王様を裸にしたのは…その「衣装」を、
何らかのイデオロギーや価値観の体現である
と考えると、
「はだか」とは、無色透明、究極の中立である。


それは一切の政治的発言を自粛させられている
我が国の象徴的存在足る天皇の存在と、
どこか通じるものがある。

王様がはだかであることによって、家臣は、国民は、
それぞれが得手勝手に頭の中で好きな衣装を着ている
ことにしてしまえる…と言うことでもある。
それぞれが好きに自分好みの美しい衣装を
そこに見ればよいのだ。

真実を口に出さないかぎり、
子どもが「王様ははだかだ」と言わない限り…いや、
自分の理想とする美しさとは何かを各々が口にしない
限り…対立構造は顕在化しない。

小泉改革が「改革」の中身を、目指すべき未来像を
決して語らなかったのも同じ。それぞれが自分の理想を
実現してくれると別々バラバラに想い描きながら
現象として大多数の支持が成立していたように。

偽りの一体感を何時までも維持していられる。

それはそれでとても居心地の良い関係が続けられる。




ただ、それを維持したまま行われる影響力の戦いは
物凄く繊細で複雑なものとなってしまう。

そこでの会話は裏の裏の読み合いであり、
常に薄氷を踏むような緊張感の中で展開され、
対立の当事者は神経をすり減らすことになる。


それは言葉だけに留まらず、仕草や身に付けるもの
…色や小道具…ひいては目線を追った先にある物や
指の指し示したものにまで、意味が見出される
ことにもなる。

このように言ってみると、この物語の王様は、元々、
“新しいもの好き”として常に新しい衣装を身に纏ってきた
のも、国内対立を国の混乱を避けるための治安目的であった
なかなかの徳のある人物だと言えるのかもしれない。

何かを着ることは、誰かの勢力に肩入れしているのだ
と思われてしまったら、そこに勢力の集中が生じてしまう。
お墨付きを与えられたとして。それを避けるための一つの
手段として、そのような動きを察知したならば、いち早く
衣装を脱ぎ捨て別の中立な衣装に着替える…国内対立を
避けるならば、国外のものを取り寄せることは理に適って
いる。新しい物好きとして、常に衣装を新しく変え続けることは、
治安維持活動の必要経費だとも言えなくもない。


そのような先で、究極に行き着いてしまった状況では、
その先に「はだか」を奨められたことは、あたかも
コロンブスのタマゴのように、究極の知恵…輝かしく
思えたかも知れない。

臣下にあっても、出口の無い堂々巡りの中では、
一縷の光として、そこに出口を、救いを、
瞬間的に見出し、暗黙の内に共有されたとしても
不思議は無い。

「バカには見えない」とは、なんとも言い得ている。
当にその通りだ。

昨今「KY」という言葉がここまで一般化した状況なら、
小学生でも理解するだろう。バカでは空気が読めないのだ。

バカにはその“衣装”が何故に素晴らしいのか…と
いうことが全く判らない。それは経緯と共にある。
その瞬間を切り抜いて「そこ」には存在しない。

正に“バカには見えない衣装”だ。





とはいえ、これらは全て内向きの力学だ。

強大な外敵の前に、または危機的な財政難の時には、
そんなこと言ってられない。

つまらない対立は自らをも含む国・共同体そのものを、
滅ぼしてしまう。「自分だけの利得」なんて有り得ない。

子どもの一言で目が覚めたとして描かれたこの話は、
そのように読めば、一貫する。


傾国になければ、表面的に安穏であれば、
そんな子どもの一言は強硬に潰される。容易いことだ。

「王様ははだかだ」

そんな子どもの一言が効果を発揮するのは、
誰もの本心に傾国の不安が醸成され共有された
時点で…だろう。


つまり、それまでは「KY」はバカとして吊し上げの対象
である。怖ろしくて誰もそんなことできない。

責任の無い子どもに言わせ…言い出すのを待ち…、
一人の子どもに全てを責任転嫁する。そんな弱くて
卑怯で汚い大人しかいない社会だ…と言うことでもある。

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