嘘がまかり通るこの世

  • 2008/05/14(水) 12:31:31

嘘がまかり通るようになったのは、
嘘を見破れる者が減ったから。

嘘を見破れる者が減ったのは、
科学的信仰の元で、
教科書や定説に字義として一致しているかどうか、
教科書と同じかどうか、
辞書・定説にどれだけ字義通りに一致しているか。


そんなことが真実か虚実か、嘘か誠かを測る
唯一の指標になったからだろう。


公教育バッシングの中で「教科書」と書いてしまうと
誤解があるかも知れないので言い換えると、「常識」
「テレビで偉そうな人が当然のように断言しているもの」
と呼び変えた方が言いようなもの。そのような疑う余地を
挟めないような権威的に働く情報源を指して「教科書」と
ここでは言っている。



発言が、そのような「正解」に合致しなければ、

例え本心から信じたまま正直に話していても、
ウソツキ呼ばわりされてしまう。

仮にそのような「正解」と発言が合致していれば、
心にも無い事を平然と語っていても、
誉められることになる。


それでは心に正直にあるというような
誠実さが醸成されて行くようなことはない。
決して。

自分で考えるということは、自分に正直に話す場合に、
科学的正解とは誤った発言を不可避にしてしまう
ということ
であるのに、教育者はその辺りを
よく判っていないように見受けられる。

本心に忠実にあるかどうか、誠実であるかどうかを
客観的にマニュアル的に判定することは確かに難しい。
だから、例え心にもない心の正直さからすれば嘘に等しい
発言をしていても、「教科書」的な発言を評価しがちなのは
ある意味でやむを得ない。

しかし、人間的に優れた者であれば、
高々子どもの強弁に対して、惑わされてはなるまい。
どんなに正しくとも、心にもない事を言っている
蟠りや疚しさに敏感であるべきだろう。

そして、客観的に…科学的にまた事実認定的に
明らかに誤ったことを言っているとしても、
その者が心から正直に語っているので有れば、
その言葉を疑うべきではないし、そのような子どもを
ウソツキ呼ばわりするなんて以ての外である。

それが虚実であったとしても、そのような認識をしてしまう
子どもの側の認識の偏向や状況性を、仕方のないものとして
しっかりと理解できる背景を捉え、何が足りないからそのように
信じてしまうのかを分析し、そのようか結果から、その子を教え
導くのに相応しい教材と受け止め、その子どもの発言を
真実と受け止めた前提で…真実・事実を曲げろと言う意味では
ない…それをテーゼとして、子どもの認識を頭ごなしに否定しない
課題をアンチテーゼとして…子どもにとってテーゼとして…与え、
その課題をクリアして行く中で、自らの実感が誤っていた事を、
自ら自発的に気付くように…ジンテーゼと至るように…向き合う
べきであろう。