「誰」とは言えぬ「誰か」の影響で育つ「私」

  • 2008/05/05(月) 12:52:47

アニメ涼宮ハルヒの憂鬱は、とても分かり易い
「記憶の再評価」の物語であったが、

その視聴者の潜在的下地になっているであろう作品として、
ヒカルの碁を上げてみたい。

ヒカルの碁 (17) (ジャンプ・コミックス)
ほった ゆみ 小畑 健 梅沢 由香里
集英社

あれも「記憶の再評価」の物語であると言い得る。

人は自らのレゾンテートルを確立する時に、
幼少時の偶然を、歴史的な必然へと読み替える必要がある。
その“確信”こそが、生の基盤であり、生きる指針となる。

そのような物語として描かれ、そのように完結している。

佐為という存在は、そのような偶然を必然へと読み替えるための
辻褄合わせの屁理屈とも、小道具だとも言っていい存在として
見立てるのだ。

…このように言っても、別にその存在をくさしているのではない。
そのように言われても、揺るがない確信こそが、人格の完成とでも
言いうるものである。科学的客観的には永遠に確信し得ない…
自分がここに居ても良いと思える理由であり、自分が今ここに
居なくてはいけない必然性を、自分にとって担保する存在なのだから。


だから、幼少時のファンタジーによくある「見えない友達」としても
理解できない訳ではないが、それ以上の意味を物語全体の構成の中で
着実に根付かせている。


悠久の過去から未来への連続性と、自らの過去…幼き自分から
自我の目覚める思春期での変化と、それでも変わらない
自らの主柱や核心。埋め合わせられない過去の記憶の断続性と
感情と結びついた意味の無い記憶。それらに再び意味を与えてゆく
その作業には、厳密な意味でのウソが入り込まないはずがない。

記憶は残されているだけでなく、作られ、常に改編されていっている。
それは事実の評価や意味だけでなく、事実そのものの改変すらも。

これを自らのこととして自覚でき、納得できるように成ったならば、
このようなオカルト的で非現実的な物語であっても、自らの過去を
意味づけ、物語化することを、「非現実だ」とは「嘘だ」とは、
それだけの理由からは簡単に言えないようになる。
「誰」とは言えぬ「誰か」の影響で育つ「私」