無意味で無駄な「妥協」

  • 2008/05/31(土) 12:12:44

自民党の言う「妥協」…「ココまで折れた」「呑んだ」

その言葉の中身を“夏の旅行”に喩えるならば、
山に行くと決めている自民、海に行きたい民主。とする。
山に行くことは全く変えずに、ただ「旅の栞」に河原遊びや
水泳の時間を入れて、その調整で、スケジュールの6割りも
書き換えてやったのだぞ! …と恩着せするようなものだ。


その動機が、遠い山よりも近場の海で、ガソリン代のかかる
車での移動より、電車での移動の可能な海にしようという
ものであるならば、そのような「恩着せ」も、妥協というより
ただ無駄に負担を重くするだけだ。
既に決めているキャンプ地から河原までのさらなる無駄な
路程と、支出の拡大と、無駄な拘束時間ができるだけ。
そのような「妥協」は、あればあるほど、ただ迷惑なだけだ。

決して誇れるようなものではない。なにより「妥協」とは呼べない。
その独りよがりな「調整」に、どれほどの労力を費やしたとしても、
どれほどの「妥協」で自らのプランを泣く泣く削ったのだとしても。




その与党議員のどこか感情的な吐露を聞いて、その心情に嘘が無い
のであったとしても、上記のような光景を、感じざるを得ない。

一挙両得を目指すのが政治の取るべき妥協や協議であるはずなのに、
今の自民党の政治を見ていて、一挙両得ならぬ一挙両損…いや、
国民を含めた“三方一両損”かもしれない。いや、間違えた。
政治家はメンツが潰れても経済的な損失は何もない。割りを食うのは
ただ国民だけだ。…正しくは“一方三両損”か。

海を見て自分の小ささを感じることで…

  • 2008/05/31(土) 12:06:55

海を見て自分の悩みの小ささを感じる


…そんな救いの定型が、未だにステロタイプを維持
していることに、理解に苦しむ。

自分の小ささを思い知り、
自分の存在を必要のないものだと、
居ない方が良いのだ
と考え、
悩んでいる現代人の背中を、
押し続けるであろうのに…。

小さな存在なのだから、
このまま消えても誰も困りはしないのだ
…と。


この前提でものを考えると、なぜそんな定型が
これほど流布しているのかに違和感を感じてしまう。

そもそもなぜ定型化したのか?
そもそもの受容はどのような理屈であったのか?


それはつまり、全共闘〜新人類世代が
どれほど自分を大きな存在であるのかを
純朴に信じてこれた
かがうかがえる。
どれほど自分に自惚れていられたのかが
判るというものだ。

自分勝手な満心という自惚れによって、
叶えられない自己実現に対してまでも、
不合理だ不条理だ…と単純に怒ることができる
のだろう。

そのようにうっぷんを溜め込んでいるところ
だったからこそ、「客観的な自分の小ささ」という
現実が、そのようなプレッシャーを無効化してくれる
着眼点として、有効に機能してきたのだろう。

であるが故に、そのような定型が
「救い」と成り得ていたのだろう。


しかし、そのような前提あってこその救いである
という視点を見失えば、どんなに相手のためと思い
考えた救いの言葉であっても、相手を救うことはできない。

相手を救おうとするまさにその行為によって、
相手を追いつめてしまう。
なんとも皮肉なことにも。


逆にその広い海を見て自己の内的世界を、
その広大な海ほどに広げることによって、
自分が尊重している友達、クラス、地域のような
小集団をこそ、ちっぽけなものと見なす…
ある意味自己肥大化こそが、現代の悩める若者を
救うことのできる方便なのではなかろうか。

非匿名という蛮勇

  • 2008/05/30(金) 12:14:48

本名の開示が責任有る対応のように言われがちだけれども、
その行為が覚悟のを程を見出す指標になることは否定しない
けれども、

その行為は、論点ズラしに利用されるだけ。

個人情報による人格攻撃を誘発し、そのような行為では、
真っ当な討論にはなって行かない。



どんなに覚悟を示しても、その意図に反し、
真っ当な討論からはどんどん外れて行く。

皮肉なことであり、哀しいことではあっても。