団塊前後の社会観

  • 2008/02/29(金) 19:13:53

団塊以前の親であったら、子に対して、

「それじゃあ世間様に顔向けできない!」
「こちらで鍛え直しておきます!」

…と言うであろうようなシチュエーションにおいて、


団塊以後の親は、

「世間に出て鍛え直してもらってこい!」
「世間に出てもまれれれば分かる(はずだ)!」

…と言う。

なんとも無責任ではないか。

いや、“世間”の“教育”に対して、
あまりにも、あてにしすぎ…というか、
期待過剰だ。

その“信頼”は、どこから出てくるのか…。

よほど「公教育」が、「しっかり」していたのだろう。

自利利他・忘己利他

  • 2008/02/23(土) 19:11:41

利他の心は大切だが、
    自利無くば、利他も無し。

忘己の心は尊いが、
    利他の行 伴わざれば、ただただ無益なり。




フツーが信じられた時代、そして…

  • 2008/02/08(金) 12:06:58

フツーが信じられた時代。信じることができた時代。


そのとき、その最低限のフツーさえ守っていれば、
あとは何でも自由だった。
何も気に病むことなく、夢に向かって邁進できた。

いろいろな人がいろいろなことに挑戦でき、
社会に多様性があった。

もちろん、そのフツーに対して抵触する領域では
その夢の実現には並外れた抵抗もあったのだが。



しかし、そのフツーが信じられなくなったとき。
何がフツーなのか理解できなくなったとき。

社会から多様性が失われた。

何がフツーに抵触するのか判らぬ不安に。
あらゆる事がフツーに抵触する異常なことのようにに
思えるようになる。

そこではどんな些細な社会に対して害悪のないチャレンジも、
個人的な趣味であっても、公言できなくなる。
人目をはばかって引きこもるしかなくなる。

周囲の人は、みな、誰がどんな人なのか。
本当はどんなものが好きで、どんなことが好きではないのか。
心の輪郭が見えなくなる。その人の個性が見えなくなる。

誰もがいっしょに見えるけれど、ほんとうはそうではない。

同じだと思ってつきあっていたつもりでも、ある瞬間唐突に
誰かの琴線にふれる。そして、空気が凍る。その場が沸騰して
集団が維持できなくなる。喧嘩別れということにも。自然消滅
ということにも。

そのような衝突を無くそう、無くそうとするほどに、
相手の実像は見えなくなり、不安ばかりが増幅してゆく。

相手が見えないが故に、取るべき対策も取りようが無い状況が
進行してゆく。より根が深くなる。より解消し難い葛藤になる。
その人の中で想いは「真実」になってゆく。