「為さねば成らぬ」は、否定し難いけれど…

  • 2007/12/18(火) 12:43:19


「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も」


かんばれロボコンで代表されるあの時代
盛んに唱えられた言葉。

そのことばは、はっきり言えば、

「宝クジも買わなきゃ絶対当たらないよ」

…って程度のことだろう。



そのような論理は、一面において真実である。嘘ではない。
だけれども、巧妙に欺瞞が織り交ぜられている。

当たった場合と当たらない場合をさも2分の1であるかのように、
当たるも八卦当たらぬも八卦…であるかのように、二項対立で
あるかのように扱われることだ。

だから、可能性のある行動と全くない行動とに分類し、
そうでない行動を取ることを可能性を否定した愚かしい行為
であるかのような評価をそこに付与してしまうのだ。

そもそも宝クジなんかに頼らない生き方だってあっていい。
いや、そうでない生き方の方が本来立派であるはずだ。

しかし、可能性を否定する者は、保守的な進歩否定の如き目で
見られるようになる。進歩史観の強い時代にあっては、それは
白眼視の対象だ。そんな中では、付き合いで買う者も多かったろう。

資本家の側の思うつぼである…と判っていても逆らえない。



このように喩えられるようなことが、現に合ったのがあの時代。
子どもに向けられた大人の視線はそのようなものであった。


全員が全員、全教科でまんべんなく100点を取り、学習塾に通い、
良い高校良い大学を出て良い会社に入ることを、“目指す”
べきだ…と。可能か/可能でないかではなく、目指すべきだ…と。

それを目指さない者は、他にどんな夢を子供心ながらに持って
いても、愚かな盲執であり、大人になればくだらないことだと
“必ず理解するはず”のこと…となっていた。

それに反する者は「一流企業」に入れない者の僻み妬みからの
難癖である…もしくは、単なる反権力、正しい秩序に抗う、
ものの優劣をねじ曲げようとする異分子、治安を乱す犯罪者予備軍
であるかのように見なされた。

そして、確かに少年犯罪はこの頃に激減した。

その延長線で、アルバイトはどんな動機から行われたのであっても
全て「不良の始まり」と見なされ、殆ど全ての中学・高校で、
退学に値する行為と見なされるようになっていった。
(その反動で1990年頃から無秩序に労働が美化され、道楽の為の
アルバイトで学業が疎かにされるままに、モラルも崩壊してゆく)。