人間らしさ?

  • 2007/12/09(日) 23:35:48

プロ(?)が初音ミクを「人間らしくする」と称して、
調整(調教)のテクニックをハウトゥしているのを見て
聞いて。

わたしは、「流石…」とは、思えなかった。ただ、

へー。そういうのが好みなんだ。」と思うだけだ。


もちろんそれらの違いが判らない…というのではない。
単に「ヒトらしさ」とは別の、趣向の問題だと。

ただ、知名度の高い者の趣向は、同時に体勢の好む趣向として
多くの者にとって有用な、汎用的なテクニックとして機能し得る
…とは言えるだろうが。



調整(調教)のテクニックとしてではなく、ヒトっぽく聞かせる
テクニックとして一つ言えるのは、ミクの最大の弱点である
歌い出しの部分を、曲の強弱やSEによって上手く隠すこと。

…で十分だろう。


もちろん、「歌手の「個性」としての「くせ付け」など不要だ」
と言っているのではない。
ただ、それは個人的趣向であって、全く無いより何か有った方が
“ヒトっぽい”が、「どうすると、よりヒトっぽくなる」という
ようなものではないはず。

どのようにしても、そこでの統一感が、その「ヒト」の個性と
なって立ち現れる。もちろんそれが良いか悪かは別。
個々人の好みの問題。

漫画のしくみも考えよう

  • 2007/12/09(日) 12:03:08

絵本のしくみを考える
藤本 朝巳
日本エディタースクール出版部 (2007/10)
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「しくみ」と歌うだけあって、きちんと「絵本のしくみ」を
解説する本となっている。でも、

絵本…と限定するより、「漫画のしくみ(基礎編)」と言ってしまいたい。

ほとんど総て、漫画を描く者はおそらく、当然の如く扱っている
表現の基礎中の基礎を、丁寧すぎるほど丁寧に解説している。






ただ、一つ誤っていると思うのは

「左→右に配置することが子どもに分かり易い」と言ってしまって
いるところ。あれはやはり誤りだろう。逆だ。

「識字前の子どもに対して、文章を読み進める視線の癖を、
“刷り込み”する一つの手段
である。」と言うべきだろう。


絵がそれのみで時間を有しているのは、
絵がそれのみで向きに対して意味を持っているのは、
文章を読み慣れた大人が、無意識にまで組み込んでいる
癖が、自動的に発動するからだ。
故にそれは、至極、後天的なものだ。



日本語の場合、正順が「右上→左下」であるように、
絵が、描かれた人物が、その向きによって有する意味や
感情というものは、文化的に異なるものであり、また、
民族人種によって先天的に組み込まれたものでもない。

本来、生まれたばかりの赤子にはそんな価値は、
そもそも内蔵されていない。真っ白である。


それを、絵本であれ、何であれ、文字に暗い段階から
刷り込むことは、その後の識字の取得、文字処理を
助けることになる。


ちなみに、絵が子どもの目線を誘導を助けると言うことは、
おそらく先天的に組み込まれているものも無くはない。

登場人物の目線を追ったりそれが上や下に向くことや、
その向き…重力に即した感情が刺激されたり、光源の
位置や向き、それにより決まる立体感が意味するものも、
右向き左向きとは異なる


そもそも、「右向き/左向き」といった呼称ではなく、読み進める
向きに対して「正向き/逆向き」と表していたならば、あえて
このような注釈を添える必要もなかったのですがね。

だから、絵の中の空間移動において、また、その中での登場人物の
向きが、正順か逆順かで、そこに投影する読者の感情との間に
関連性が無い…と言っているのではない。
その読み進めるリズムには重要な意味がある。

しかし、それが、「右だから/左だから」…と言うこと
ではない。そもそもにおいては。



ただ、そのような刷り込みが完了している大人に対しては、
無意識的な意味を喚起させる効果はそれだけで十分にある。
作為的な者は、それを意識的に用いている。

例えば、広告の立て看板や選挙ポスターなど。
その顔の向きによって意味が生じる。

例えば、右上を向いていると、未来の展望を描いている。
左上を向いている顔は、保守的な懐古心を表す。
その意味は、英語圏では不動の意味を有しているだろう。

ただ、日本においては当然、そうとも言えない訳で。
左右両開きの書籍、縦書き横書きが混在する文化の中に
あっては、その意味はシチュエーションによって正反対に
反転する。

そのポスターをどちらから来て見たか、見ているマインドが
縦書きか/横書きか、縦書き/横書きどちらに馴染みのある
世代か/階層か…etc。
縦書き/横書きどちらのメディアに乗せる広告であるか…など、
写真と共に乗せる文章で多少操作できても、その選択は単純ではない。






そして、「ページをめくる」という行為を重要視しているのだと
しきりに繰り返しているにもかかわらず、重要なポイントが全く
指摘されずにスルーされている。

どのように「ページをめくるか」だ。

著者は、何の注意もなく「左上から右下へ読む」ことを前提に
している。子どもがその順に注意を向けるはず…ってことに
なっている。


しかし、絵本の読み手たる母親(?)の“ページのめくり方”に
よって、それは異なる。

子どもは、ページを完全にめくり終わってから、初めて絵を
見るわけではないからだ。捲っている最中にも、絵本を見ている。

ページのめくり方による初見位置

普通にAのように捲れば、動いているページにはピントを合わせ
られないので、最初に左ページの端が目に入ることになるはずだ。
Bのように捲っても、それは同じなのだが、
しかし、Cのように捲れば、筆者の望み通りに、左上から右下へと
強制的に読ませることも可能となるわけだ。

もちろん、読み手である母親(?)と、子どもの位置関係。
ページを捲る手がどちらの手であるか等によって、視線を遮る
場面が生じるわけで、著者の言うほど意味が限定されると言い切る
ならば、拘る作家は、そこまで支持すべきなのだろうか(反語)。







最後に蛇足ながら、
「グレイシーをおいかけて、その犬、つかまえて!」という
まーく・ティーグの絵本を紹介し、解説しているのだが、
その最初のページの解説がちょっと投げやりだ。

主人公が左向きであり、その後の展開(不安)を予感しているのか?
のような書き方でお茶を濁している。
それまでの、「正順=良感情/逆順=悪感情」という公式を、
単純に当てはめすぎだ。
主人公の犬は逆順であるが、明らかにリラックスして満足げに
描かれている。

主人公が意志を持って行動している場合、正の順序でないと、
自らの意志/意図が阻害されて不愉快になるのだが、
主人公がさして何らかの行動を起こそうと意図していない場合、
風景が、自分に向かって流れてくる…周りが勝手に動いているが、
自分はあいも変わらぬ日常に満足している…とう状況になる。

この絵本のこのシーンは、まさしくその状況にピッタリである。
しかし、自分に好ましい背景ばかりが流れてくる訳ではないので
あって、主人公にとって不愉快な状況が流れてくる。
流れる状況に抗っているので、その場合でも主人公は逆向きだ。

しかし、主人公は快適な環境である自宅から追い出される。
そこで、初めて自らの意志で自らを動かさねばならない
シチュエーションに陥る。はじめは混乱しているので、
左右どちらでなく、読者に向かって正面に向かって走る。
そこから自宅へ戻ろうと意志をもって行動する時に正順となり、
安心した自宅に帰ると左向きに戻る。

通して現物の絵本を読んだことがないのですが、そのように解釈
した方が、正しい解釈であるように思える。部分的に引用された
絵本の各ページを並べてみた分には、私にはそう思えた。