亥年の一年・終演の一年

  • 2007/12/31(月) 23:59:59























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前世というものの効用と役割

  • 2007/12/31(月) 12:14:26

世に通用され当人も納得しているような
前世の姿ってのは何だろう。

思うにそれは、当人にとって…成長し、変化し、もはや忘れ
てしまった本人の以前の姿を、幼少期や青年期の姿を、
誇張して寓意して理解するためのキャラクター。
…ってところだろう。

本人の“自己同一性”によって、生きている個性にとって、
今とは異なる人格たるそれを、素直に自己とは認識できない
ものである。

その自己同一性を否定せずに以前と今との関係性を、
それらの連続性によって、今に残る諸問題を自覚的に
対処させるように促すための欠かせない方便である。


精神力が強ければ、魔力耐性が有れば、
多様な可能性を同時に思索できるならば、
自己の同一性を否定してみせる事実追求型で
問題に対策を講じることもできる。

しかし、
自らの自己同一性に疑いを微塵も持てない者にとっては、
自己同一性の崩壊の危機に瀕している成人状態にあるもの
に対しては、
その問題行動を改めさせるためには、前世という方便を
使う以外に何か方法があるだろうか?!


私にはその妙案は未だ見えていない。

挫折の必要性があっても

  • 2007/12/30(日) 19:53:32

絶対弱者―孤立する若者たち
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この問題を、挫折の有無で語るべきであろうか?

そして、その挫折のチャンスを唯一大学受験にのみ求めるべきであろうか?


幼稚園から行えば良いではないか!?


尾崎豊の時代から「卒業って いったい なんだ?!」なままである。

大学全入の賛否はどうでも良いが、何の能力も身につけず、
ただ、黙って教室の机に座っているだけの苦行僧のような存在を、
ただ座っていただけで、一定期間、一定年月を経過しただけで、
「卒業」し「成人」してしまって良いのか?

「卒業」だとか「成人」だとか、あらゆる場面において、
鍛錬して(あえて努力の言葉は使わない)、何かを身につけ、
身につけたが故に認められる。最低ラインをクリアしていなければ、
絶対に出さない。卒業させない。合格者としては認めない。

そのようにすべきだ。そのような常識を物心つく前にまず認識させる
必要があるのではないのか?! でなければ、どんな「卒業」にも、
「成人」にも「免許」にも信頼も責任も生まれてはこない


今の…1980年以降の…学校制度の問題は、その先送り体質にこそ
あると言うべきだ。努力などしなくても、何れ大人になり、
(法的に)出来ないことを出来るようになる。酒・タバコのように。
能力を身につけるのではない。単に着手することを許可されただけ。
であるのに、何か特別な能力が自ずと身に付いている気になってしまう。

何もせずに黙っていれば、知らないけれど解決しているだろう…という。
チャーリーとチョコレート工場という映画はそのような話らしいですね。
…蛇足ながら。



故に、「大学受験の失敗」などでは、その時点で「すでに手遅れだ」と
考えるべきでないのか?! 人生訓的には「あらゆる事に手遅れはない」と
言えたとしても。

「仮想的有能感」のようなものは、
赤子のごとき子どもが必然的に経るべきものとは異なる。

今の問題を先送りにする小中学校の誤った過保護体質が、
“後天的に”“学習”させている。システムの持った必然である。
「やらなくて良い(済む)ものは、やらなくていいや」

それは、「今の計算機時代には、算盤なんて必要無い」だとか
「絵筆を使った習字なんて、やっても意味がない」などと、
比較的多数の“常識人”も考えているであろうことと、
当人の認知している環境認識として、構造的にさほどの違いが
有るだろうか?!

「仮想的有能感」これは、そのようなものとして、
発達心理学のようなレベルでの「常識」とは混同すべきものではない
ように私は考える。


あえてそのように育て、育てられるままに素直に育った子どもを、
大学受験や社会人入社試験において、初めて唐突に“掌を返す”
そのことが、現時点での個々人に対して正しい対応なのだとしても、
そのようなシステムを、正しいものだとは、とても考えられない。

そうではなく、
留年・卒業延期などを、体力的にまだまだ「子ども」であるうちに、
教師に対して肉体的弱者であるうちに、厳然と認識させるべきであろう。

ただし、
一度脱落したら二度と這い上がれないような仕組みであってはならない。
留年した友達は、それ以後二度と見かけない…だといった環境にあれば、
絶望のうちに人生を放棄してしまうかもしれない。落ちる人もいれば、
跳び級する者もいるような環境であれば、努力の意味も価値も可能性も
信じることが出来るであろう。

そして、
自らの「成長」が全く認識できない今の「相対評価」を捨てるべきだ。
自分は何を知り、何を知らないのかを自認する。
何ができ、何ができないのかを思い知る。
子どもに示すべき成績とは、そのような「絶対評価」であるべきだ。

全員がその学年の教科書をマスターすれば、全員が評価「5」でよい
ではないか。

ある個人が頑張り努力して仮に100点をとったとしても、
クラス全員が100点であり、他の授業態度などによる
相対化によってある者が「あなたの成績は1です」なんて
ことになれば、努力の意味や価値を信じられなくなる。
努力した自分も、他校の学級崩壊クラスのやつも同じ「1」なんて
ことに思いが至れば、努力の意味が見出せなくなって当然であろう。


故に私は考える。
まず「絶対評価」によって自らの成長を地に足の着いたものとして
認識できるようにする。

そして、上級生・下級生との接触の場をもっと準備する。
運動会のような受験と関係の無い非日常のものだけでなく。

低学年と同じ授業を行う。当人には同じ繰り返しであり、無駄とも
思えるような授業に参加させる。
そこで授業内容に汲々とついていった時点では見えなかった周囲の
反応を見ることも可能となる。余裕があるからだ。

下級生がようやく出来て喜ぶ顔や出来ないで苦悩している姿を
見れば、クラスで劣位にある者であっても“できる自分”を
発見できる。
きちんと学習し修得した者のみを上げていれば、その場の上級生全員が、
誰でも、できていない下級生を教え導くことが可能である。教え、尊敬
される経験を体験すれば、クラスで相対的に常に下位に居る者であっても、
成長の実感や喜びを味わうことが可能であるはずだ。

何より、何も学ぶことなく成人まで惰性で流れ着いてしまう
「公教育の被害者」を、完全に無くすことが出来る。


成人して何もできない奴は、自業自得である側面もあるが故に、
生きる価値を社会的に承認し難い。

仮に留年してでも社会人として必要なスキルをきちんと修得した
後に成人するのか、偽り・虚飾の承認によって、成人になるまで
実質的に教育を放置され、何の能力もないままに後は一人で生きろ
とつけ放すのと、どちらが本当に子どものことを考えていると
言えるのだろう。その個人の人生を尊重していると言えるのだろう。





これまでの教育論は総じてそうであったと感じているのだが、やはり
対象を「永遠の子ども」として「子どものための教育」や
子どもの楽園としての「子どものための学校」を考えているとしか
思えない。

教師の立場からは、常に自分の目の前を通過するだけの子どもを、
次々に永遠に“子どもだけ”しか見ていない環境で考えるからであろう。


しかし当然のことながら、前の子どもと次の子どもは違う子どもであり、
指導に誤ったら、次に流れてくる子どもに対処すれば良いと考えるのでは
成長する個々の人間という観点が欠落してしまう。

そのフォローが本来されるべき対象はそのまま流れさり、過ちは放置される
ことになる。と共に、それとは別人である次の子供たちに、必要のない対処を
施すことになる。故に、飲まなくて良い薬をのまされれば健康を害するように、
新しい世代の子どもは、別の新たな問題を引き起こすことになる。

現に生きて成長している個々人の、個人史的観点の失われた同一年代を、
毎年毎年常に均質に扱う階層的な教育を続けていては、問題は連鎖
し続けることになるであろう。もしくは鎖国の世のように同質に永遠に
ただ輪廻するだけの「終わり無き日常」のような社会が「完成」されれば、
構成員の幸福は永遠に保たれるようになるのかもしれないが。
それもユートピアであろう。


必要なのは本当に「挫折」なのであろうか…?

私には違うように思える。
本当に必要なのは、正当な「卒業」にこそある…のだと私は考える。

不当に卒業させ、挫折すれば、“浪人”と言われるように、
社会的帰属場所の無い不安定な人間を、構成された社会と社会の隙間に
誰の目も行き届かない社会の“非構成員”として闇に消えてしまう
だけではないか?!

それら連中を受け入れてくれるのはいわゆる「やくざ者」だけであろう。
その中にはカルト宗教のようなものも含まれる。それに留まらず、
彼らがテロリストの構成員として、ただいいように利用される日も、
そう遠くないのかもしれない。

彼らが社会の加害者として社会の前に現れても、彼らもまた被害者である。
いや、社会のルールを守る義務も義理も感じられない村八分以下の存在
なのであるのだから…。彼らに、罪悪感を持つことは期待できない。