メディア史と「人種」感

  • 2007/11/30(金) 20:02:18

前記事「戦中生まれの占領教育世代って感じ。」「人種意識の構築を準備した時代背景
の続き。以下の書に対する私感。



著者は、「白人優越人種論」とでも言うべき傲慢な価値観を
基礎付けた者としてブルーメンバッハを糾弾し、
その約80年前のフランソワ・ベニエルの時代では、人種を
色で分類するようなことはなかったのに…と。
発展史観を絶対的な前提とでもしたように、それを歪めた
ブルーメンバッハを諸悪の根元のように槍玉に上げる。


私の考えでは、その歴史的転向をそのようには解釈しない。
普通に「技術史に平行した時代なりの考え方だなぁ…」と
思うに過ぎない。
メディア史と「人種」感
多色刷りが歴史的にどのような需要と供給の関係にあったのか、印刷に利用される
原色としてのインクの技術史的な背景を的確に提示できるような知識に裏打ち
されているものではありませんが…。




私に言わせれば、これは技術史の系譜で読み解く。

ベニエルの時代に色の言及がなかったのは、
それが白黒印刷メディアの中心時代であったからであろう。
もっと言えば、活版印刷で大衆化した刊行物の時代から、
加えてエッチングなどの技術で、文字だけでない挿し絵本の
普及が始まっている時代でなかろうか。

リンネの時代に人種を単純な色分けで分類されたのは、その時点で
さらに多色刷りが普及しはじめていたのではなかろうか。限定品
としての彩色本ってものはそれ以前にもあったろうが。

故に、印刷で使われる基本色としての原色に偏重した思考パターンが
その中で形成されていったのも分かる。



社会環境が、フルカラー印刷による雑誌広告メディアと、
カラー放送によるTVメディアの大マスメディア状態に
ある今、白…真っ白であることが、印刷メディア時代における
印刷前の紙の色がそうであるような“万物の素体”であることを
意味しなくなっている。万物をありのままに表現するための
前提としての、表現媒体たる紙を如何に白く漂白するか…を
意識することもない。加工技術によって、過去の藁半紙のように、
すぐに光で酸化し「黄化(黄禍)」する現象を、日常的に見かける
ことも無くなった。

逆に言うと、「白人」が優秀だと言い得たのは、著者が言うように
「白≒正義」を代表にあげるような言葉の中に組み込まれた価値観
と言う以上に、紙メディア時代を背景にした価値観だとも言い得る。



そして、
TVメディアの時代。黄色とは、カラースペクトルの中心である。
ある意味での中華思想の根元的な場所にある。

作者は「黄色に描かれる西洋人」を、単に「白色でない」という
だけの意味で評価し、それ以上の言及…なぜ黄色なのか…には
全く言及していない。「白≒正義(有色≒悪)」のみを怖れていて、
そうでなければ何でも良い…といった感じすら伺える。

しかし、「何故黄色か」を考えると、無視できない問題がそこに
秘められているように思う。私は。





人種対立を煽る優性論の如きものは、いつの時代にも
権力者が作り上げようとする小細工である。

気をつけなければならないのは、そのように作られた言葉を
強権的に「言葉狩り」し、安心を得ようとすることではなく。

そのような賞味期限の切れた、権力基盤の役割を終えた言葉に
執着を示すのではなく、

新しく権力基盤に利用されそうな言葉に敏感にアンテナを広げ、
抑止の意識を忘れないように努力することだ。


昨今の時勢で懸念するのは、テロリズムに対する過剰な恐怖と、
イスラム原理主義をテロリズムの同義語のように扱うことだ。

中東人を犯罪者扱いするここ10年のアメリカの態度は、
前世紀アメリカの「黄禍論」とさほど変わりのない
偏見に満ちた人種的蔑視であろう。


「黄禍論」を客観的に地球人的視野から糾弾するのであれば、
同じように、テロリズムに対する過剰な抑止活動にも、異論を
唱えているのだろうか? 私は唱えるべきだと考える。が、
そのような視野はこの書には織り込まれていない。

日本人の立場から狭量に自己利益最大化を叫ぶだけならば、
「黄禍論」を糾弾するその同じ口で、テロとの戦争を叫んでも、
自己利益の観点からは矛盾はないだろう。なんら。
でも、客観的視点からは明らかに矛盾している。
ダブルスタンダードで二枚舌だ。



多数派を構築し、運命共同体だと錯覚させる屁理屈なら何でも良い。
それが自尊心と結びつけば強固となる。

それが正しいか過っているかは関係ない。自らがその「多数派」に
…民主主義前提でなければ多数派でなくともよい…「神の陣営」に
所属しているかいないかだけが重要となる。その屁理屈の根拠に
存在しているのは、科学的・論理的説得力でなくともよい。
例えば軍事力のような暴力的な絶対性でも根拠足りうる。そこでは
黒も白と言い得る。

とは言っても、常に「力」だけで優劣が決するわけではない。

故に、弱者の側にあると自覚する者は、常に、論理的正しさを
優位とする価値観を守り、力を持つ者を除いた残りの側で
多数派工作に尽力するしかない。力を持つ者をクリアに際立たせ、
その陣営を切り崩しゆくことで、多数派を形成するような手段で。

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今の報道フォーマットと今後…

  • 2007/11/29(木) 19:33:50

ここ20年報道が、ワイドショーが、
スキャンダラスでセンセーショナルに煽りつづけているのは、
多くの視聴者がそれを望んだからだろう。

その対象とは、男権社会の中で「お見合い」によって
結婚“させられた”と感じ続けてきた段階世代以上の
主婦層だ。

昨今、彼女らの離婚・再婚が多いのは、若者の「自由恋愛」を
妬ましく思い続けてきた鬱屈が爆発しているのだとも言えよう。


社会が不幸に溢れていることを望むのは、
男権社会の中で家庭という牢獄に押し込められ、
喜びのない労働に、ルサンチマンを貯め込んでいるからだろう。
そのはけ口としての報道でありワイドショーなのであろう。
昼メロもその役割を演じている。



しかし今、その構造は変化しつつある。

自由恋愛の元、“鬼嫁”に安住している新しい主婦層は、
むしろ、そんな不愉快な事件を見たがらないであろうと思う。

「自分の幸せが脅かされない社会である」という願望を、
信念として強調させる情報を求めていることだろう。

そんな中、頑なにも“ほのぼの”を貫いているNHKに、
それら視聴者は流れていっているのではなかろうか。
テレビメディアの中では。
それ以上にSNSに流れているのでしょうが。



みのもんたのお昼の番組は、番組改編によって明らかに
視聴者層をシフトさせた。
ゲスト出演者を見ても明らかなように、団塊からJr.へと。


朝ズバのパネル芸のように、
こちらも雪崩を打って転倒して行くことを半ば願う。


と言っても嘆かわしい報道を自主規制せよと言うのではない。
減っている犯罪件数を、あたかも増え続けているかの如くに
煽動するような報道姿勢を改めろ!ってこと。

犯罪がゼロになることは無いから、今の犯罪件数が、仮に
100分の1に減っても、今と同じ様な治安不安を、事実をもって
煽ることはおそらく可能であろう。

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人種意識の構築を準備した時代背景

  • 2007/11/28(水) 18:31:18

大航海時代〜植民地支配の中で、この頃

貴族として絶対的身分制度の中で安穏としていた連中が、
初めて、自己を相対化する視点を身につけたのだろう。

見下していた庶民階級が、新世界やアフリカ・インドにて、
莫大な富を得て政治的発言力を増している現実や、

自国にも入ってくる中で直接目にするようになった外国人奴隷の
その圧倒的な人種的形質の違いに対して、
これまで見下してきた自らの使用人と、自分との外見的類似性が、
際立って意識されるようになってくる。

身分制という神の定めたもうた理に揺らぎが生じてくる。



人種意識の構築を準備した時代背景

同時に、自分が使用人を冷遇することが、
直ちに、黒人に自分が虐待される可能性を、強く連想させる。

家畜を物品のように商品管理し始めた20世紀の中頃に、
「人間を家畜管理するという“宇宙人”」という「信仰」が
生まれ広まったのも、それと似たように、自らの行為を客観視する
ことが出来るようになることによって、その行為を転倒させて
自らに降り掛かった場合をも想像できるようになる。

それが想像させられる事による恐怖が背景となっていたのだろう。


その恐怖を払拭するために、自らと外見の類似する
同族の使用人の扱いを「人間らしく」改めることであり、
自らの勢力がその権力を安泰に保ちたいと考える心理が、
民族主義の正当化の論理構築に先立っていたのだろう。

そのタテマエの裏には、大衆・被支配層を、自らの権力基盤と
「運命共同体」へ動員し、そこに組み込むホンネもあったはず。

その正当化された論理が大衆に浸透した(してしまった)後に、
世界大戦へも発展しうる大衆的民族主義運動の如きものへと
繋がってゆく。



そこではまた、第三世界にて混血した新勢力をも満足させ、手懐けねば
ならないアクロバットとしての第三の道(ジンテーゼ)をも
構築しなければならなかったろう。



そんな構図として当時の時代人の意識を見立てられまいか。
以上、以下(↓)の書に対する私の見解。



筆者の言う「アメリカの利益」というのは、表現として正しくない。

正確には「たまたまアメリカに籍を置いている支配者層の一部の利益
であろう。だから、それが貫かれても、アメリカ国民はさほど恩恵には
預かれない(むしろ共に被害者)。

煽動されれば単純に踊ってしまうだろうが、その欺瞞が暴かれれば、
直ぐに踊ることを止めるはずだ。第二次大戦後もベトナム後もそうだった、
イラク後のこれからもそうなるだろう。


また、日本人には人種差別が無いと主張したがっているようだが。
そんなはずあるまい。


例えば、ペリー来航時に江戸の庶民が好奇心で集まり、
人と人との交流をした事実が残されていると例示する。

それだって、庶民は、国際情勢を知りうる幕府の重鎮らとは異なり、
鎖国政策の中で日本が世界の全てであって、この世界(日本)を
ひっくり返しうる勢力がこの世に存在するなどとは、微塵も
考えていなかっただろう存在だ(上図の左)。

そんな彼らにあっては、パックス・アメリカーナなマインドで
途上国に赴く欧米人とさして違いの無い傲慢な考えで、異人との
接触に赴いたかもしれない。私はそうであったように思う。
当時の日本にジョン万次郎を育てたホイットフィールドのような
存在があったろうか?




人種主義とは「色分け」だけであろうか?
(反語)
江戸庶民の異人画など、差別意識の現れだろう。常に人種と原色とを
対応させなければそれらは全てまるで人種主義でないかの如き論調である。
すでに著者の敵視する当のマインドに毒されている。

これら論法は、戦前の論客等とさして変わらない「防衛制御
攻撃者との同一視」としての言動にしか私には見えない。



白い人を白人と言って何が差別なのか?
「白人=善人」「黒人=悪人」という意味しか読みとらない奴らが
差別者なんだろう。
そんな意味の限定された言葉として「言葉狩り」してなんになるのか。

白人には、メラニン合成の出来ない遺伝的に劣った人間だという
差別的に劣等の意味を込めて誇称することだってできる。
生焼けのパンという形容もある。
単に「(自分より)白い人」という人種とは無関係の代名詞として
使って何が悪いのか。





本の中盤から、「反米」「アメリカ難し」の感情を迸らせるばかりで、
結びの言葉としての「日本人は西洋の多様性を知らなすぎる」という
文言がなんとも空虚だ。

せっかく、良いテーマと興味深い素材に注目しているのに…。
これでは、本のタイトルとしての「黄色に描かれる西洋人」と
第一章で描かれた欧米での現実を、残りの2〜9章をかけて、
すべてぶち壊しているに等しい。


現在進行形として断言されるそれら過去の事例の列挙は、
「結局この世界は、強い人種主義に支配されている」という
パックス・アメリカーナの現実を強調しすぎている。
日本人の孤立無援感を強調しすぎだ。その態度は、
自ら指弾している戦前の思想家とどこが違おう。

パックス・アメリカーナの片棒を担いでいるのはどっちだ?!

と言いたくなる。こんな形(感情的文言)であえて蒸し返さなければ、
多くの日本人の意識の上でのアメリカのイメージは、ロック文化後の
ソレでしかない
であろうのに。





あとがきで「白人」「黒人」という言葉を日本語から一切追放し、
使うべきでない…と主張している。それは浅はかな言葉狩りであろう。

大切なのは、単語を駆逐することなのではなく、
人の肌の色と善悪・優劣をつけないように教える態度であろう。

いくら言葉を狩っても、相対的な肌の色の違いは厳然としてあり、
単純な言葉の組み合わせによって言語の上にそれは何度でも
現れてくる。

「言葉狩り」によって免疫を失った若者はその時、むしろ
スポンジが水を吸い取るように、瞬く間に、そのような差別意識に
染まってしまうことだろう。そうならないためにも、させないためにも
「免疫」が必要だ。


だから大切なのは、“バランスの良い併用”だ。

「黒(白)人だから素晴らしい」「黒(白)でも悪い」といった表現の
乱れた中にあることこそが好ましい。と私は考える。
それは、「三度目の正直」「二度あることは三度ある」というような
互いに相矛盾する表現が共に併存する“諺”の空間のように。
それが時に忠言となり、また、同時に免疫ともなる。





注記>
民族と人種とを混同したような文章になっていますが、意図的です。
パックス・○○に煽動されるような対象(大衆)は、その混同に
つけ込まれるような形で動員されている…と考えているから。

「人種」によって引き起こされるソレに 賛同するも/反対するも、
自らの生存権を左右すると感じるからこそ、その中で迷妄する。

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