人の声の範疇

  • 2007/10/31(水) 17:01:55

声と音の境目とは…って部分に触発されて応答してみる。
からだをもたぬ声





電子楽器が受け容れられる前までは、
ここでの論考のように、個々の楽器に固有の音質のようなものの
価値が主張されていたように思う。楽器固有の味がある。その違いが良い。
職人の心のこもったソレがよい。電子楽器はソレがないのだ!…として非難
していた。同じ論考はデジタルカメラの前のフィルムカメラにおいてもあった。

しかし、どちらも共に、許容されていった。今ではすっかり…である。

結局、それらはそんなところに「違い」を見出していやしなかったのだろう。
おそらく、表現されたものと受容者の感覚の閾値の問題だけであろう。

例えば、8bitのドット絵では誰が見ても無機質だが、
数百万画素で撮影されたものは有機的に認識される。
その両者の何処に閾値があるのか…と問われれば、
人類固有の定数など求められるはず無くそれぞれ違うと
しか言えないだろう。がその両端の間、何処かに必ず
平均としての閾値があるのだとは言えよう。


ミクは、完全に人が歌っているようだ…とも評されるが、
私には、まだまだ合成音として認知されてしまう。
上手いと思う部分があっても、まだ趣向に耐えない。
ただ、あと一歩とは思う。





ちなみに、
「このブームが何故2007年なのか、何故初音ミクなのか…?」
という問いを、別の何処かで見かけた。

いわゆる「声優しゃべり」というのが、一般の通常会話と異なり、
一般人にとって人としてのなんらかの閾値を超えた部分にソレがあり、
また、ソレをこそ趣向する人間が多数存在するという状況にあって、
合成音を人の声として認知する閾値が低い集団と近接していた。
とは言えるのではなかろうか。そこが、いわゆるオタクと呼ばれる人
たちが居る場所であったからこそ、その人たちの中でまず先にブームが
生じたのだと。

蛇足ながら、人の声をデジタルで加工したものを、人の声として
受容していた感覚が、合成音を加工された人の声として転倒する
ようなシナプス結合が醸成されていた側面も無くはないのだろう。
2chのような匿名コミュニティの中では、プライバシー隠匿の目的も
あってあろうそのような作品が流通していたのではなかろうか…と
推測する。

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敬意と評価と成長と

  • 2007/10/30(火) 19:57:56

初音ミク関連の記事を少し目を通した。



芸術におけるアマチュアリズムの意義

Mr.マリックが手品の種明かし番組をしているのも、同じ動機からだろう。

半世紀前の価値観では、手品は「(魔法でも見るように)素直に見るべきだ」とされてきた。種の有無を見極めようとするのは邪心であり、道徳的に正しくないとでも言うように。
故に、手品を見る側の鑑賞力は落ち、手品の人気は落ちていった。それと平行するように、オカルティックなものがもてはやされていった。手品は、その「種」が全く判らなくとも、「どうせ種があるんでしょ」の一言で切って捨てられるような対象になっていった。
その先に到達したのは、見た目と印象とノリ、広告の優劣が商品の善し悪しを決定付けるような虚飾文化へと経済を貶めた。昨今の商品偽装問題の病根もそこに求められよう。

話を戻すと、
Mr.マリックは、種明かしをし、種が判っていても見破れない技術や鍛錬の後をこそ、誇りたかったのだろう。それをこそ認められたかったのだろう。素人同然の下手な手品師と一緒くたに扱われ、同等の評価に晒されてきたことに耐えられなかったのかも知れない。観客の見る目のレベルでは、それらの違いを見極める事が出来ないから、そんな部分では客足を左右しないことを、不公正だと考えていたとも思える。

また、手品の面白さには、別の側面もある。
見た目には同じ現象を、異なる別のトリックを用いることで再現することもできるということ。その場合、あえて定番のトリックを知らしめることこそが、逆に、別のトリックを押し隠すミスリードの役割を担い、トリックを見破ろうとする観客を出し抜くことになるのだ。その喜びや、格別であろう。
また、してやられた側である観客の感動も、一入であろう。

大衆にその喜びを掘り起こしたMr.マリックの業績は讃えるべきだろう。





ここで少し逸れて文中のリンクを辿ってみた。
「文章読本さん江」さん江

 > はあ? って感じである。
(これが何に対する言葉なのかはリンク元を読んでいただくとして)

「珍プレイ(好プレイ)集」のような形で、現に1980〜90年代のにおいては、
その「プロの凡プレイ」の方をこそ、あら探しされ、消費されていた。
「せねばならなかった」ではなく、「すでにされていたこと」であった。
著者に対してツッコミを入れるならば、その部分であろう。



その「はあ? って感じである」って時代をこそ生きてきたであろう
このブログ筆者と、評論対象の著者の時代感覚の差が、ここに見える。


著者の感覚は、その生育時代において正しく、現にそれが受け容れられ、
受容されている事に気付かずに、幼少の持論のようなものを未だに
主張していると見れば滑稽だが、その条件付きで、その主張は正しい。

おそらくブログ筆者の方は、その「あら探し時代」の中で生きてきた訳
であり、それを無条件の前提にしているからこそ、「はあ?」と侮蔑
せずにはいられない心情と共に、それを批判(非難)するのだろう。

著者が絶対的なヒエラルヒーの中で息苦しかったように、
筆者も価値観の定まらない混沌の中で向上心の発露の先を見出せな
かった事に息苦しさを感じてきたのであろう。





これら二文を並べて感じて欲しいのは、
青年期に確信した社会問題が、現に改善のために実践され、行われ、広く受け容れられている現状には鈍感であり、あたかも自分だけ(自分を含めた少数派だけ)が気付いている問題だと強く言いすぎてしまうこと。その滑稽さというか、不条理さが、世の空気を大きく左右に振ってしまうという構造問題。その主張が常識として舞い散る世の中に感じ育った子どもが、今度は逆に、その逆の立場をこそ正しいと主張する事になるであろう必然的な構造を。

正反対の主張をしている両者の論理と認識は。どちらも正しく、どちらも間違っているとも言いえること。主張が正反対であっても、両者共に同じ構造的過ちを行っているという皮肉。それこそが止まらずに流れる時の流れと、死すべき存在である人間とがもたらす不可分の構造問題。

政治献金ってそういうものでいいの?

  • 2007/10/30(火) 12:46:18

政治献金って「預金」みたいなものですね。


自らが問題を起こして(世間にバレて)困っている時に、
政治家は、それら献金を遡ってすべて、耳をそろえて
返してくれるのですから。

政治家の側は、「問題のある会社との関係の解消のため」に、
打算的に返すのであって、温情や救済の意志なんて無いのは
自明でしょうけどね。


そして、その政治家の側も、急な献金の返還を、
「大規模な臨時支出」だと見れば、「酷く痛い」と
感じるのかも知れないが、

これもちょっと見方を変えるならば、
「無利子で金を借りている」ようなものだ。
そう考えるならば、献金はメリットしかない。


をぉ、これってWIN-WINな関係だ。