あえて流れに棹をさしてみる

  • 2007/09/09(日) 12:54:08

「流れに棹さす」

現代的に言い換えて新たな慣用句を創るならば、

「下り坂でペダルを踏み込む」

…だろうか。言うまでもなくシチュエーションは自転車だ。
しかし、これも「坂でペダルを踏み込む」と言ってしまえば、
「流れに棹さす」と同じように逆の意味も持ってしまう。

その「坂」を「上り坂」だと解釈してしまえば、
「上り坂ではペダルを強く踏み込まないと前へは進めない」
「意図的に強く踏み込まないと、後戻りしてしまう」
といった意味としても用いられる用語となってしまう。



「流れに棹さす」

この言葉をそのままに受け取って浮かんだ情景から意味を取ると、
流れの強い場では、あえて棹をさして動力を自己発生させなくても、
自然に進んで行くのだから、「あえて“棹をさす”ような行為に
出なくても良いのではないか」…とか「労力に見合うほど成果が
得られる訳でもないが、じっとしていられない」とでも言うような
ある意味「せっかち」とも言いうるニュアンスを含んでいるのでは
ないだろうか…とも個人的には思う。

そして、現実的に、河の流れの速い場所で下手に棹をさす行為は、
水面に棹をとられて河に引き込まれそうになったりする。そこでは
棹を取られるようなその抵抗によって、むしろ舟を減速させる
ことにも為りうるわけで、逆効果の意味も持ちうる。
まぁ、そのようなヘマをしうるのは、ドシロウトだけだろうが。




ちなみに私は
「慣用句」を「正しい日本語」と言ってしまうことに抵抗感がある。
私に言わせれば「慣用句」とは、「論理的に正しくなかったり、
その文章が潜在的に持ちうる意味を限定してしまっているもの」
でしかないからだ。


そこから、
上記自転車と坂での比喩で表したように、逆から言って
流れに逆らって「棹をさす」行為を文章にて形容しても、
同じく「流れに棹をさす」としか言いようが無いわけで、
昨今の「美しい日本語」という運動は、言語の根元的論理性だとか、
そこから来る文章の本来持ちうる含意の幅を殺す行為でしかない。
それは、例えば「掛詞」を「美しい」としてきた日本人の
和歌の心にも反する…ように私には思えてしまう。