肉体と精神のメタファー

  • 2007/09/08(土) 02:52:55

それまでのロボットアニメは、マジンガーZ(1972)によるパイルダー・オンに
象徴的に現れているように、
それを扱う者の魂によって、正義にも悪にもなりうるという構図であった。

それは、精神と肉体の関係であると共に、
大量破壊兵器としての原子力がしばしその寓意に用いられるように
科学と人類の関係とも対比されている。
肉体と精神のメタファー'70


転じて、90年代ロボットアニメの代表であろうエヴァンゲリオン(1995)に
おいてのパイロットとは、その存在は一見して“誰でも交換可能なもの”
そこに座る者は誰でも良い かのごとき意志薄弱な者を配している。
その意味では戦う意味を問うたガンダム(1979)にも見て取れ
なくもないが、その存在は決定的に違っている。

エントリープラグという人間で言うと脳と肉体の狭間(脊髄)に挿入される
それによって象徴的に描かれるそれは、パイロットの意志は、
現実的にもさして重要でない/必要とされていない構造になっている。

それは
例えば、仮にパイロットが気絶しても、
巨大ロボ(人造人間)の自律行動によって敵を殲滅しうるものであり、
また、仮にパイロットが操縦拒否をしても、司令部からの支持で、
ダミープラグなるものを持ち出して、ある意味遠隔操作しえるもの
でもある。
その活動時間の短さは、アンビリカルケーブルによる活動範囲の制限で
あり、首を鎖でつながれた番犬の如く。アムロ@ガンダムのように
それに乗って逃亡ということも不可能なものとして規定されている。
肉体と精神のメタファー'95


このように描かれた設定の中には、個人の意志が世界の運命を左右する
のだ…というような旧来の巨大ロボによって示されたある意味楽観的な
寓意構造の示す構図は、悉く制限されたものとなっている。
いや、それを否定するためにこそ構築された設定であると言うべきか。

パイロットの意志などが何かを左右しうるものではないのだ…と。

この寓意が世の現実を正確に模しているのだとすれば…
徹底したマニュアル化社会の構成員としての個々人は正に
代価可能な存在として一部の現実を模しているのだから…。
…登場人物は、どこに救いを見出だすべきなのか。





おそらくそこに答えるためであろう。
そこに配される個人の必然性を、このように描こうともされている。

「母親の犠牲」として造られたソレを、扱えるのはその子のみ…として。
シンクロ率として適性の測られるソレによって。


戦後世代が一貫して否定してきた親子の連続性。伝統文化の如き因習性…。
そこにこそ、他人とは代替の不可避な連続性としての過去と未来の接合点…
救いの場を提示する構図を描きたかったのだろう。


しかし、それらは直接接触・交流のできない形で提示されている。
母の死で、母とは言えない存在としてのエヴァの存在として、転化されている。
祖先とは直接交流などできないが、残された伝承と伝統の中に秘められた
ものとして間接的にしか交流し得ない存在として失楽園的に配されている。
ビアトリクス・ポターの絵本…ナトキンが失った「しっぽ」のように。


そして実際現実はそれに等しい状態になっているのだろう。企業人として
家庭をほとんど顧みられずにある事を強要する社会によって、育った子ども
…共稼ぎの時代になって、父のみならず母までもをほとんど奪われた存在
として育って行かねばならぬ今世紀の子ども達…にとっての親子の連続性などは、
その母、エヴァどの関係のように引き裂かれている。

児童福祉施設のような形で間接的に…その生命は維持・保存される…
エヴァとエントリープラグの中の主人公の関係…のようになっている。
母の意志によって選ばれた保育所であっても、母との身体的接触の無い環境。

それでも、遺伝的連続性…個体維持のみに規定されるものではなくとも
利己的な遺伝子として…未来をその中に見出すのは、動物として、
生命として、根元的な欲求であろう。その欲求をどのように繋いでゆくか。

そのような関係として読めなくもない。

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