DEATH NOTE 完全決着版ってたいそうな…

  • 2007/08/31(金) 22:34:31

「リュークの視点から再構成」ってんで視てみた。
…ハッタリだった。
しかし、この時間でこの構成を再構成するならば、
もっと大胆にエピソードを前後させた方が迫真の演出が
できたのではなかろうか。





例えば。
主人公(キラ)に共感させ、物語に引き込ませるには、

二人の「キラ」が拘束されているところから物語を始め、
大企業の不正を暴く純粋な夜神月で前半を進めるという
構成にするべきだったろうに…。

はじめ、理不尽な監禁状態から始まるからLに対する
横暴と不快感が比較的容易に視聴者を物語に導引させる
こととなったろう。

その中で、デス・ノートのルールは記憶を失った夜神に教える
という形でストーリーを進行させ、視聴者に夜神の正義感に
疑いないところまでもってゆく。その確信的なところで、
彼の行動に矛盾を感じさせるようにLと対峙させてゆく。

それを積み立てたところで、夜神がノートに触る…という
ところで前半を締める。



その後、本来の前半…冷徹に人を殺してゆく夜神のこれまでを
Lの立場で描いてゆく。

夜神に共感しながら見ていた者は、背筋を寒くすることだろう。
そこからがジェットコースター。
次々に登場人物を裁いてゆくキラの展開はある意味で爽快だろう。

そのジェットコースターの真っ直ぐに行き着く先として、
Lの死が直撃する。畳みかける展開の中でのLの死という終極。


夜神月なる存在に恐怖し、その末期を見届けたいと思わせたことだろう。

その夜神を死へと追いつめてゆく次の映画を。
それこそが“映画宣伝番組”として、最大の目的だろう。



しかし、今回のこの下手な総集のような描き方では、
これが初見の視聴者に対し、そう思わせるには不十分だった
のではなかろうか…。
その辺がちぐはぐになっている。…ように思う。







蛇足ながら、私はこの作品…漫画…を評価するところは、
読者に対して主人公の意志と行為と決断とを、「正しい」
のだとミスリードさせる表現と、それに疑問を抱かせる複線
とのバランスにあったと思っている。いや、ミスリードさせ得た
論理やシチュエーション描写こそが人気作品になり得たキモ
であるのだと。
(私は、連載終了後、一気に立ち読みした程度の接触頻度)

それが今回、ミスリードの部分を悉く削ぎ落としてしまっている
ような編集に、ガッカリ感でいっぱいだ。もちろん物語が完結し、
その結論を正しいとした立場から編集しているのであろうから、
そのような選択の意志が働いてしまう内的動因が拭いがたいことも
判らなくはない。

もはや「そっち方向」へ視聴者を微塵も誘導したくないという
怖れのようなものも働いているだろう事は「今」の時代の空気
から判断しても同情はできる。

ここ数ヶ月で、“時代の空気”は確実に入れ替わった

正しい言葉狩り

  • 2007/08/28(火) 18:22:54

タブーにし、放送禁止にすることは、言葉狩りとして
正しい行為ではない。

そのブラックリストの保管や、その言葉の使用を監視する体制は、
本来狩るべき言葉の意味を限定し、永続化する。

はっきり言って、その行為は目的に対して本末転倒である。…注1





例えば、「コスプレ」や「萌え」という言葉。
今では初潮前のあどけない子どもまでもが臆面もなく口に出し、
ほとんど日常会話の一部となっている。

しかしそれらは公言することが憚られるような意味の隠語のような
ものであったはずだ。

「コスプレ(コスチュームプレイ)」という言葉は、元々性風俗における
用語であって、ここでのプレイという言葉はセックスの意味でしょう。
つまり、ある種の性癖を持った連中においては、裸より服を着たまま
のプレイの方が盛り上がることに目を付け、どのような衣装を着て
プレイするかを売りにしていた風俗業界の言葉だったかと思う。

そして、「萌え」という言葉は、上記のコスプレに類似する性癖の
表明を表す言葉として使われていた。性的実体を抜いた要素として
性的フェティッシュを指示する言葉としての「萌える」という用法。
例えば…眼鏡萌え(≒眼鏡フェチ)

何故、そのような言葉が実効性を有していったかを考えるに、
そもそも性風俗において、相手が自分の好みに合わず不満な相手
であっても、そこでの不満足を補い、とりあえずの満足を得よう
とする為の、欠点を覆い隠すオブラートのような存在として、
それら衣装や小道具が模索されたわけで、固有性…人格のような部分
から排除された概念的・一般名詞的部分のみを扱う需要が生じたから
であったろう。


話を戻して、
「コスプレ」「萌え」のような、そのように性的な猥褻な言葉であった
ものも、今では「コスプレ≒おしゃれ」「萌え≒かわいい」としか
言い様のない代名詞にまで、その意味が曖昧に多様化してしまっている。
他にも「キモイ」という存在否定に等しい言葉も、今では
「キモかわいい」というような愛玩の対象となっている。

この段階で、もはや本来の意味は「死んだ」に等しい。

「はしたないから使うな! 元々の意味がどうだから…」等と、
大上段から権威主義的に言葉の矯正を強いるようなことをするならば、
それこそ「やぶ蛇」だ。

大人として正しい対応は、言葉をそのまま死ぬに任せて、
結果的に意味を塗り替えるのを待つことであろう。
このような流行語は、その流行の加熱を煽るほど、
ギャグ・駄洒落と同じように早く風化する。


探せば世界各国各言語の中から、差別用語と同音異義語として
価値中立な一般名詞や、尊敬に値する固有名詞が見つかるだろう。
それらを意図的に日本に紹介し、資本の力でブームを作り上げて
しまえば、差別用語も耳慣れたものとなり、その音調を口にする
ことを躊躇うタブーも無くなるだろう。


「押して駄目なら引いて見ろ」よろしく、
消したい言葉ほどインフレさせるべきなのだ。
あとは、流行語大賞のような「歴史のいちページ」として
刻まれてしまわない程度に気をつけて…。






注1>
とはいっても、体面上差別禁止などの名目で自主規制される差別用語
等は、その目的が差別の禁止にではなく、差別構造の温存固定化にある
とするならば、それら勢力の行っている行為は、理に適っていると
言える。

観光と温暖化

  • 2007/08/26(日) 12:15:26

「温暖化」を危険視するその口で、
何故、「観光」の重要性を口に出来るのか?!(竹村健一を代表に)

はなはだ疑問だ。


極端な話。仮に、この世界から、
「人間」という物流にかかる“輸送コスト”が丸々消えれば、
どれほどCO2削減になるか考えてみてはどうか?!

「経済」という“綱渡り”をしている連中には、
その綱の上をどう歩むか…だけしか眼中にはない
のだろうか。

張られた網を支えている支柱・大地に例えるべき基本が
全く見えていないのだろうか…。




地球を壊してでも続けなければならないというような
逼迫した地方における経済的自立・生存の問題があるのも判る。

乞食に対する布施にも似た経済大国の傲慢な道楽心を
満足させる方便として“だけ”の「地球環境」「自然愛好」
というパフォーマンスの需要があるのも判っている。

しかし、それらをタブーにして問題を複雑な婉曲表現の中だけで、
空中戦のような論議だけしていてよいのだろうか?

そうではなく、真正面から対峙することこそが、真の解決へと
向かうための第一歩になるのではないか。
そう思えてならない。



観光という趣向・好奇心行為は、自然や地球環境に対する興味関心
としてイメージの上で曖昧に接合されてしまうことが、この問題を
複雑にする。